学部生の頃に、阿部謹也の本を読んでいて、たいへん面白い記述に出会った。彼は、どんなときでも、自分の主観的視点に加えて、自分自身を外側から監視する、客観的視点を保持して生活するようにしていたという(これは僕のパラフレーズで、正確な文言ではないが、だいたい以上のような趣旨のことが書かれていたと思う)。「私」の視点と同時に、自身を「君」ととらえる視点ももっていたということだ。
サッカーの中田英寿も、自分目線のカメラ、それとフィールド全体を見渡す観客目線カメラを同時に作動させる特殊能力をもっていたという。自分、味方プレイヤー、相手プレイヤーがフィールドのどこにいるかが(観客のごとく)つねに把握できているため、いつでも的確なプレーを選択することができたらしい。偉大な選手はやはり違う。
もうひとつ、これも学部生のときに読んだものだが、言語学者の鈴木孝夫が「独り言」について面白いことを言っていた。いわく、独り言が出るとき、日本語では、自分を「私」ととらえるが、英語では、自分を「君=You」ととらえるらしい。日本語話者が「(私は)エアコンを消し忘れた!」と言うのにたいし、英語話者は「(君は)エアコンを消し忘れたぞ!」と言う、ということか。つまり後者は自分のことを外側から見つめ、「相手」に注意喚起をしていることになる。
阿部の話は、当時の僕に強いインパクトを与えた(ヒデと鈴木のそれも同じ)。「もうひとつのカメラ」を使って自分を外側から観察するなど、それまで考えたこともなかったからだ。彼の記述に出会って以来、現在にいたるまで、僕は彼の言うことを実践しようとつとめてきた。うまくいっているかどうかはわからないが、「お前は何をやっているのだ?」という問いは、僕から僕につねに向けられている。
僕は西洋古典学を専門としているが、上述の意識のために、久しく「自分のやっているこの西洋古典学とは何か?」について考え続けている。ギリシア語・ラテン語を始めて10年ほどが経った最近では、本格的にこの問いに取り組もうと思っている(『悲劇の誕生』を出版したニーチェにたいするヴィラモーヴィッツの怒りの反論がひとつの重要な手がかりを与えてくれそうだと考えているが、これについてはまた別の記事で話したい)。この「研究の研究」、いわば「メタ研究」は、僕のアイデンティティにかかわってくるものだ。「西洋古典学研究」と自己注視・自己客観視は連動している。
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