英文学の問題を参考に、西洋古典学について考える

舟川一彦『英文科の教養と無秩序―人文的知性の過去・現在・(未来?)』(英宝社、2012年)という本をときたま読み返す。学部生時代にお世話になった先生が書いた本だから、というのも理由のひとつだが、いちばん大きな理由は、舟川先生(と呼ばせてもらう)の関心事が、僕のそれと基本的に同じであるからだ。この本の「まえがき」にある先生の言葉を借りれば、その関心事とは、「人文的分野の研究・教育に携わる人間が自らの職務と存在意義をどう定義するかという問題」(p. i)である。

 英文学(先生の専門分野)の意義について論じるにあたり、このディシプリンの成立・発展の事情を歴史的にたどってみる、という点が、この本の最大の魅力である。中心にあるのは、簡単に言えば、「(歴史的に)そもそも英文学とはどういうものだったのか?」という問いである。ちなみにこの問題意識は、先生の前著、『十九世紀オクスフォード―人文学の宿命』(Sophia University Press、2000年)でも同じだ。

 たとえば、「英文科の『教養と無秩序』」という章では、マシュー・アーノルドの『教養と無秩序』が、英文科をめぐる制度的な争いにおいてどのように利用されてきたかが論じられる。『教養と無秩序』は、もともとは英文科とは何の関係もない書物だったが、いつの間にか、英文科の存在を正当化するバイブルとなった、という話などはとても面白いと思う。『教養と無秩序』は、英文科が「創られる」にあたり、たいへんな役割を担わされたわけだ(そういえばテリー・イーグルトンも『文学とは何か』のなかでこの問題に触れていた)。

 僕が専門としている西洋古典学というディシプリンも、英文学と同様、なんらかの歴史的事件の連なりによって「創られた」はずだ。舟川先生の仕事を手本にしつつ、僕も西洋古典学の歴史的背景をたどる作業を少しずつ進めていきたい(鍵は、これも英文学と同じで、19世紀にある、というのが現在の見立てである)。

 

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

0コメント

  • 1000 / 1000