今年度ある大学で担当したリレー形式の講義で、僕はユウェナーリスの『諷刺詩』(日本語訳については下記リンクを参照)を扱ったのだが、今日は、その講義に参加してくれた学生たちのレポートを読んだ。
レポートの課題は、「『諷刺詩』のうちどれかひとつ歌を選び、そこで登場する「私」について論じなさい」としたのだが、これは、ユウェナーリス研究における中心的論点をふまえて考えたものだ。『諷刺詩』は、一人称の「私」が語るという形式をもつが、この「私」は、作者のユウェナーリスと単純にイコール関係で結べるわけではない(つまりこの「私」はペルソナである)、というのが大前提で、研究者たちは、この「私」の性質について長年議論を重ねてきた。
この「私」を特徴づけるものとして最も注目を集めてきたのが、「怒り」の感情だ。全体の序歌にあたる第1歌の開始部(79行)で、「怒りが詩を書かせる」(facit indignatio uersum)と述べられているのがその理由だ。そしてじっさい、『諷刺詩』の「私」は、周囲のさまざまな悪徳にたいし、「怒り」の感情を見せており、「私」は「怒る」詩人である、という判断はけっして間違いではない。
ただ、この「私」は、ただ怒りまくるだけの人物ではない。たしかに第1歌から第6歌は「怒り」が土台となっているように思われるが、第7歌以降はこの「怒り」が一種の和らぎを見せており、それはたとえば諦念や茶化しに姿を変えている。『諷刺詩』の「私」は、非常に多面的な顔をもっているわけだ。
「ペルソナとしての私」というのは、学生たちには少し難しいテーマかもしれないと思っていたが、レポートを読むと、なかなか面白いものが多く、嬉しかった。レポート提出者の全員が今後もユウェナーリスの研究をし続けるとは思っていないが、このテーマは、その後のヨーロッパの諷刺文学を理解するうえでも重要なので、彼らには、今回学んだことを忘れないでいてほしい。
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