ちょうど一年ほど前に亡くなったアーシュラ・K・ル=グウィンは、小説作品のみならず、評論・エッセイの類も数多く残した。ここのところ、その一部を少しずつ読み進めているのだが、今日は、『夜の言葉』(日本語訳については下記リンクを参照)に収録されている、「SFにおける神話と元型」を読んだ。
この評論文を読んでみようと思った理由は単純で、タイトルに見える、ユング心理学の用語の「元型」が気になったからだ。ル=グウィンは、「学者タイプの小説家」とみなせるだろうが、ユング心理学にも手を出していることは知らなかった。
ル=グウィンは、「SFは現代の神話である」(121頁)という言葉でこの文章を始めている。神話学の研究をしている身からすると、この言葉には注目せざるをえない。というのも、「現代における神話」というテーマは、M・エリアーデやJ・キャンベルといった著名な神話研究者も関心をもっていたからだ(前者は『神話と夢想と秘儀』、後者は『神話の力』において関連の議論をしている)。
ただ、ル=グウィンのいう「神話」には、ある特殊な意味が込められている。彼女によれば、SF作家がつくり出そうとする「意識と無意識のつながり」こそが「真の神話」なのだという(131頁)。これについて、彼女は以下のごとき説明をしている。
結局芸術のなすこととは、もろもろの感情、感覚、身体などから切りはなされて漂い、純粋な意味という虚の世界へ旅だつことでもなければ、精神の眼を閉ざし、理性とも倫理とも無縁な無意味のなかに浸りきることでもなく、この二つの対極のあいだのごく細く、困難で、しかし欠くことのできないつながりを断たないようにすることなのです。つなぐことです。観念と価値判断、感覚と直観、外側の皮膚と大脳とをつなぐことなのです。(131頁)
この「つながり」を生み出すものとして彼女が持ち出してくるのが、ユング流の、いわゆる「集合的無意識」を構成する「元型」である。ふたたび彼女の言葉を引いてみる。
真に集合的なもの、つまりわたしたちすべてのなかで生きており、大切な意味をもっているイメージへと至る唯一の道は、真に個人的なものを介してしかないように思われます。純粋な理性の非個人性でもなく、「大衆」に埋没した非個人性でもなく、なにか他のものに還元することのできない、どうしようもなく個人的なもの―自己。他者に到達するために芸術家は自分自身の内部へと向かいます。理性を手がかりにしながら、自分の意思で非合理なものの世界に足を踏み入れるのです。自分自身の内奥にはいりこめばはいりこむほど他者に近づいていくのです。(131~132頁)
「元型」とは、教科書的にいえば、あらゆる人間が無意識的に用いている思考の型のことなので、「普遍性」がその特質の中心にあるはずだと考えられそうだが、彼女は逆に「個人性」を強調している。個人的になればなるほど普遍的になる、というこの逆説は彼女独自のものだ。
正直にいうと、彼女のこの議論については、「わかるようなわからないような」という思いでいる。きっとまだまだ勉強が足りないということなので、『夜の言葉』に入っている他の評論文も読んでみようと思う(たとえば「子どもと影と」もユングに触れているようだ)。
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