マンガで読む『オデュッセイア』

明日のカルチャーセンター(NHK文化センター梅田教室)の講座のために、里中満智子氏による「マンガギリシア神話」シリーズの一冊、『オデュッセウスの航海』(詳細は下記リンクを参照)を読んだ。手に入れたのはずいぶん前で、長らく積読状態になっていたものだ。

 補助的な視覚資料のひとつになるかもしれない、くらいの気持ちで本棚から取り出し、読み始めてみたのだが、この試みは結果的に吉と出た。「原典でギリシア神話を楽しむ」をモットーとしている僕の講座は、(今期の場合は)『オデュッセイア』の日本語訳をメインの教材としているのだが、里中氏のマンガは、この方向性にぴったりと合うものであることがわかった。というのも、基本的に原典にとても忠実に物語がつくられているからだ。この手のものには脚色などがあるのが普通だが、里中氏のマンガにはそれがほとんど見当たらない。文字通り、「ホメーロスの『オデュッセイア』をマンガにした」という感じだ。

 ただ、一点だけ、このルールから逸脱しているという意味で気になってしまった部分がある。それは、物語の結末のシーンだ。里中氏は、求婚者たちへの復讐を済ませたオデュッセウスが、ペーネロペイアとベッドでゆっくり語らうところをラストシーンとしているが、これは原典とは異なる。原典にもたしかにこの「夫と妻の和合」のシーンはあるが、じつは物語はそれで終わるわけではない。このあとには、殺された求婚者たちの遺族がオデュッセウスのもとに敵討ちにやって来る話があり、そのクライマックス場面では、一人前の男となったテーレマコスが、父親のオデュッセウスに匹敵しうる人物として提示される。つまり、『オデュッセイア』の末尾で示されるテーマは、(里中氏流の)「夫と妻の和合」ではなく、「父と息子の相克」なのだ。

 ひとつだけ誤解のないようにいっておきたいのは、里中氏が上記のような(つまり原典に忠実でないというかたちで)物語を終わらせたからといって、僕はこれを悪だとみなしているわけではない、ということだ。むしろ僕はこの手の改変こそ興味深いものとみている。立てるべき問いは、「里中氏の改変は許される行為か?」などではなく、「里中氏の改変にはどのような(文芸的・社会的・政治的etc.)背景があるのか?」であろう。この問いをもう少し具体的にいいかえると、「なぜ里中氏のマンガでは、「夫と妻の和合」で話が閉じられねばならなかったのか?」となる。

 最後の話は、もはやアダプテーション批評にかかわる、学術的性質をもつものだ。明日、まずは里中氏のマンガの良さを紹介したうえで、余裕があれば関連の専門的な話をしてみたい。

 

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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