今日のカルチャーセンター(神戸新聞文化センター三宮)の講座では、オルペウスの冥界下りの話をしたが、その際、これときわめてよく似たイザナキの黄泉国訪問にも簡単に触れた。講座のなかでは、(以下で紹介する吉田敦彦氏の議論を借りつつ)ひたすら両物語の類似性を強調したのだが、受講生の方から、オルペウス物語の特異性(いいかえればイザナキ物語との違い)にかんするコメントを頂戴し、それを受け少し考えてみたことがあるので、今回はそれをメモしておく。
両物語の類似性については、吉田敦彦氏の『日本神話の源流』の議論(とりわけ第二章および第五章のそれ)を借りたので、まずはこれを簡単にまとめてみたい。「亡妻を上界に連れ戻すため、冥府を訪問した夫の冒険を主題とした説話」(142頁)は、ギリシアと日本のほかに、ポリネシアと北アメリカにのみ分布している。このうち、「夫の企てが失敗に終わったとされ、その失敗の原因が冥府で課せられた禁令に夫が違反したことであったとされている」(142頁)のは、ギリシアと日本の神話をのぞけば、北アメリカの伝承のみである。ポリネシア神話の場合は、夫のタネが冥界にいる妻のヒネのもとに赴き、一緒に地上に戻るよう懇願するが、相手からただ拒絶されるだけ(つまり「禁令」のモチーフを含まない)なので、ギリシア・日本・北アメリカの物語とは異なる、というわけだ。残ったこの3つのうち、旧大陸に属するのはギリシアと日本だけなので、この二地域の物語の類似性は、特別視する必要がある。以上が吉田氏の議論だ。
ギリシア神話と日本神話の類似性はきわめて特異なものであるという吉田氏の主張は、たしかにそのとおりかもしれない。ただ、この二者をつなぐキーとして吉田氏が注目する「冥府で課せられた禁令」を細かくみてみると、少し違った議論もできるように思う。(受講生の方から頂戴したご意見をヒントとして)僕が注目したいのは、「禁令」の提示者である。日本のイザナキ物語の場合、それは、「神」イザナキと(階級的差異がない、という意味で)同じレベルにいる、「神」イザナミである。それにたいし、ギリシアのオルペウス物語においては、「禁令」を出すのは、冥界のプローセルピナおよびプルートー、つまり、「人間」オルペウスより上位にいる「神」である。
要するに僕が言いたいのは、「禁令」の提示者は、日本の場合でもギリシアの場合でも「神」であるが、前者と後者の神学的な意味合いはまったく違う、ということだ。日本のケースにおいては、「禁令」を出すイザナミも「禁令」を出されるイザナキも同じ「神」なので、イザナキが「禁令」を破ることについては、さほどの深刻さはないように思える(現に『古事記』では、結局は一夫婦のたんなる「痴話喧嘩」が描かれているようにみえる)。他方、ギリシアの物語では、「人間」のオルペウスが「神」から出された「禁令」を犯すわけなので、問題ははるかに大きい。「ヒュブリス」(傲慢)をもつ人間が神の「ネメシス」(懲罰)を受ける、というギリシア神話の基本図式を思い起こすならば、物語中のオルペウスは、紛うかたなき「罪人」である。
オルペウスの冥界下りの物語には、イザナキの黄泉国訪問のエピソードには当てはまらない、「人間は神に逆らってはならない」というメッセージが教訓として含まれているのではないだろうか。
【参考文献】
吉田敦彦『日本神話の源流』講談社、2007年。
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