昨日、NHK文化センターの講座で、『オデュッセイア』のペーネロペイアを取り上げたのだが、その際、久保正彰氏の『「オデュッセイア」 伝説と叙事詩』(詳細は下のリンクを参照)の議論を借りつつ、話をさせてもらった。なぜそうしたかというと、久保氏は、専門家のあいだで非常に議論の多い、第19歌のペーネロペイアの振舞いについて、一見かなり奇抜なものの、納得できなくもない見解を提示しているからだ。以下、重要な部分のみ簡単にまとめておきたい。
第19歌では、ペーネロペイアが乞食の姿に変装したオデュッセウスと一対一で長い会話をする様子が描かれるのだが、問題になるのは、「ペーネロペイアは目の前の人物が自分の夫だと気づいているかどうか?」ということだ。これにかんして、大半の論者は、「気づいていない」と考え(e.g. 西村『ホメロス『オデュッセイア』』147頁)、「認知(アナグノーリシス)」が成立するのは、第23歌の「寝台のトリック」の場面であるとする。テクスト(とりわけペーネロペイアの台詞)を素直に読めば、この解釈に行き着くだろう。
これにたいして、久保氏(および氏の議論に土台を提供するHarsh)は、あえて「深読み」を試み、ペーネロペイアは客人がオデュッセウスであると気づいている、と主張する。氏は、「詩人の第十九巻の構想は、敵側のスパイを含む大勢の衆人環視の状況をつくり出し、その中で、オデュッセウスがペーネロペー[=ペーネロペイア]の好奇心を刺戟し、二人は所与の条件がゆるす限り正確に、相手の本心と意図を見きわめようとする、虚々実々の駆引を一つの場面にまとめることにありました」(194頁)と述べており、これは僕もその通りだと思う。
久保氏の議論でポイントとなるのは、老齢の乳母エウリュクレイアの導入の方式だ。エウリュクレイアは、有名な「足洗い」の場面で、腿の傷から客人がオデュッセウスであることに気づいてしまう人物だが、久保氏によれば、この「事故」はすべてオデュッセウス本人によって準備されたものなのだという。オデュッセウスは、「苦労の数々を味ったことがある、忠実な老女」(168頁)に自分の足を洗ってほしい、と述べており、エウリュクレイアを「指名」しているも同然の行為に出る。幼いころのオデュッセウスを知る彼女が腿の古傷を認めた場合、オデュッセウスの正体が明らかになるのは必定なので、彼がこのような発言をするのは物語展開上かなり不自然(彼の正体は誰にも知られてはならないはずなので)なのだが、久保氏は、これはオデュッセウスによる作戦―ペーネロペイアにたいして「帰還」のシグナルを送っている―ととらえる。エウリュクレイアは、客人の正体に気づいたとき、驚いて金盥を落とし(もちろんここで大きな音が出る)、自分の考え(「客人=オデュッセウス」という考え)を相手に伝え、報告のため、すぐそばにいたペーネロペイアのほうに目を向ける。そのときの描写(478行)は、「かの女[=ペーネロペイア]はできなかった、見つめることも、みとめることも、面とむかっては」(191頁)となっており、久保氏は、「面とむかっては」という表現に力点が置かれていると考えれば、ペーネロペイアの「心だけはそちら[=エウリュクレイアとオデュッセウスのほう]に釘づけになっていた」(193頁)、と解釈できるのではないか、と述べる。つまり、ペーネロペイアは、オデュッセウスの暗黙裡の「シグナル」を受け取り、エウリュクレイアが発見してしまった「真実」にあえて気づかないふりをしている、ととらえるわけである。
要するに、第19歌において、ペーネロペイアは「演技」(=自分はなにもわかっていないというふり)をしている可能性があるのだ。たとえば「織物のトリック」にあらわれているように、ペーネロペイアは知恵にすぐれた人物なので、このような行動をとってもなにもおかしくないのではないか。受講生の方からも、「オデュッセウスの策略を感知できないような鈍い女性が、イタケーの屋敷を20年も守れるはずはない」という意見を頂戴し、僕もこれに強く同意する。久保氏の主張は、僕にとってはたいへん魅力的なものだ。
【参考文献(久保氏の本についてはリンク先のページを見られたい)】
西村賀子『ホメロス『オデュッセイア』―〈戦争〉を後にした英雄の歌』岩波書店、2012年。
Philip Whaley Harsh, 'Penelope and Odysseus in Odyssey XIX', AJPh 71 (1950), 1-21.
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