今日、とある小さな勉強会で、プルータルコスの『対比列伝』にかんする報告をさせてもらったが、そこで、この伝記作家といわゆる「構造主義」の関係のことが話題に上った。非常に面白いテーマだと思うので、以下、会の場で考えたことを覚書風にまとめておきたい。
「構造主義」というのは、一言でいえば、二項対立を基軸にした思考法のことだ。レヴィ=ストロースが、ヤーコブソンの音韻論を下敷きにして、あらゆる事象を二項対立の集積ととらえたことを思い出せばよいだろう(具体例として有名なのは彼の親族論と神話論だ)。二項対立について、ソシュール言語学を援用しながらもう少し具体的に説明すると、これが、項Aと項Bの相互否定性によって成立している、という点が重要だ。簡単にいうと、項Aの意義(ないし価値)は、「項Bでないこと」にあるのであり、項Bのそれは、「項Aでないこと」にあるわけだ。「BでないところのA」と「AでないところのB」という二項は、こうして安定的な体系をつくり出すことになる。
そこで、プルータルコスの『対比列伝』だが、この作品は、(上記の意味での)構造主義的思考を基盤にしていると考えることができるのだ。本作においてもっとも重要なのは、叙述の対象が「(ギリシア人とローマ人の)ペア」として提示されており、この二者が「比較(対比)」されている、という点だ(この意味で、わが国で定着してしまった感のある『英雄伝』という書名は、このプルータルコスの基本構想を無視した、まずい呼び名である)。僕が勉強会の場で取り上げた『テミストクレース・カミッルス伝』を例とすると、カミッルスでないのがテミストクレースであり、テミストクレースでないのがカミッルスである、と解釈できるように思われるのだ。両者それぞれの特性は、相手との「差異」によって浮き彫りにされており、彼らが魅力的に映るのは、ペアの相手がいるからこそなのである。このことは、例えば、リーウィウス『ローマ建国以来の歴史』(第5巻)で描かれるカミッルスのことを考えればよりはっきりする。この歴史家はカミッルスを単独的に扱っており、彼の特徴はもっぱら彼自身の言動に依存しているわけだ。当然、プルータルコスのカミッルスとは異なるカミッルスが読者の前に現れることになる。
ただじつは、二項対立を軸としたこの思考法は、おそらくプルータルコスに特有のものとはみなせない。というのも、単純化を恐れずにいえば、この構造主義的思考法は、古代ギリシア人全員のあいだで共有されていたもののように思われるからだ(例えば邦訳も出ている、カートリッジ『古代ギリシア人』では、そのような観点で分析がなされているので、興味がある向きは一読されたい)。プルータルコスが興味深いのは、この価値判断用テンプレートを伝記叙述の場に持ち込んだうえで、過去の偉人たちに特別な光を当てたためなのである。
【参考文献】
ポール・カートリッジ(著)、橋場弦(訳)『古代ギリシア人―自己と他者の肖像』白水社、2001年。
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