今日は、関西イタリア学研究会の例会に参加してきた。ダンテ『神曲』の研究で有名な慶應義塾大学の藤谷道夫先生が、「煉獄とは何をする場所なのか」という題目でお話をされたのだが、たいへん勉強になった。僕は、『神曲』のなかでも「煉獄篇」にはそれほど馴染みがあったわけではなく、事前にひととおり(日本語訳で)読んだときも、どういった点が重要なのか正直わからなかった。だが、今回の先生のご発表―「煉獄篇」の総合的解説―を聴いて、「煉獄篇」がいかに面白い物語であるのかが理解できた。あの場で学んだことを挙げ出したらきりがなくなってしまうので、以下では、とくに印象に残った事柄を2つだけ記しておくにとどめたい。
一つ目は、煉獄の総督をしている小カトー(第1歌)にかんすること。僕は、なぜダンテはこの人物を煉獄の支配者としたのか、強く疑問に思っていたのだが、先生のお考えでは、小カトーは「清廉潔白」のシンボルとして、そのような大役を任されているのではないか、ということだった。ダンテが熟読したと思われるルーカーヌスの『内乱』では、小カトーは非常に高潔な人物として描かれており、どうやらその描写がダンテの選択の背景にあるようだ。これに加えて、小カトーは自殺者である、という点にかんする先生のご説明も印象深かった。周知のごとくキリスト教では自殺は大罪とされており、そうすると小カトーが煉獄の総督を務めているのはかなり奇妙なわけだが、先生によれば、小カトーは、「自由」のために命をかけて戦った―これは、フィレンツェの自治のために粉骨砕身したダンテの姿勢と一致する―人物であるため、「自殺」の意味合いが異なる、ということだった。これには非常に納得がいった。
二つ目は、ダンテとウェルギリウスが煉獄の旅の途中で出会う、スターティウス(第21歌以降)にかんすること。この人物についても、僕は、ダンテの選択の意図がわからなかったのだが、先生によれば、スターティウスは、異教徒(ギリシア・ローマ)詩人のなかでも、「キリスト教的」な側面をもった人物であるため、ダンテとウェルギリウスの案内役に抜擢されたのではないか、ということだ。スターティウスの『テーバイス(テーバイ物語)』のなかには、イエス・キリストの経験を彷彿させるようなエピソードが含まれているらしく、どうやらこれが決め手となっているようだ。中世の知識人は、異教作品をキリスト教的に(無理矢理)解釈することが多いが、ダンテの『テーバイス』読解でも、同じようなプロセスがあったのかもしれない。
発表の時間は2時間、質疑応答の時間は1時間30分と、この類の会合にしてはかなりの長丁場だったが、僕はまったく「長い」とは感じなかった。藤谷先生の「カジュアルな」(これは決して悪い意味ではない)お話のされ方が僕にとってはこの上なく心地よく感じられ、時間はあっという間に過ぎていったのだ。先生は、なんと19年(!)、カルチャーセンターで『神曲』の講義を続けておられるそう(「地獄篇」第1歌からスタートして、いまは「煉獄篇」の半ばあたりまで進んだとのこと)で、おそらくそのご経験が、聴く者を飽きさせない魅力的な話術につながっているのだと思う。僕は先生のそのスタイルがいたく気に入り、またカルチャーセンターの仕事もしているので、懇親会のときに、「カルチャーセンターでお話をされるとき、なにか工夫されていることはありますか?」と先生に質問してみた。先生のお答えは、ただ一言、「垣根を作らない」ということだった。先生のように上手くいくことはないだろうが、僕も次からこれを実践できればと思っている。
こんなに楽しく『神曲』の勉強ができることは、きっとこの先ないのではないかと思う。大満足の研究会だった。
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