今日は、東京大学で開催された、ティム・ホイットマーシュ先生の講演会に参加した(先生と僕の関係については、2019.3.22の記事で取り上げているので、まずはこちらを読んでいただけると幸いである)。ただ、今回は、講演会それ自体のことではなく、そのあとに行われた懇親会のことについて書きたいと思う。
場所は、カウンターのある天ぷら屋だったのだが、オーガナイザーの先生のご配慮で、僕は、ホイットマーシュ先生の隣に座らせてもらった。そのため、この上なく幸運なことに、僕は会のあいだずっと先生とお話をすることができた。とはいえ、もともと先生にはお聞きしたいことが山ほどあった(ちなみに最後にお会いしたのは4年前)ため、実際は、僕の先生への「インタビュー」という形式だった。
3時間弱の「インタビュー」で、ほんとうにたくさんの貴重なお話を伺うことができたが、もしその話題のうちひとつを選べといわれたら、いわゆる「(批評)理論」と西洋古典学のかかわりにかんするお話が一番印象に残っている。僕は、先生が、ブルック・ホームズ(プリンストン大学教授)とミリアム・レナード(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン教授)の両氏とともに、'Classics in Theory'という叢書をちょうどスタートさせたばかりである(出版社の紹介ページを下に貼っておくので、興味のある向きは参照されたい)ことを知っていたので、詳細について聞いてみようと思ったのだ。どうやら、日本と同様、イギリスでも、「理論アレルギー」のある文学研究者は多いらしく、これは憂慮すべきことだと先生はおっしゃっていた。ただ、先生が強調されていたのは、誰もが(たとえば)フロイトやデリダに精通していなければならない、などということではなく、研究対象への自身のアプローチにメタ的な意識を向けていない者が多い、ということだった。これは僕もまったく同感で、「文学を研究する」といったときに、自分の用いている方法論に無自覚である学者は非常に多いように思う。とくに西洋古典文学の場合、ある語彙や表現の意味を特定する―文学研究のもっとも基本的な営みだ―ために、「なんとなく」同時代のテクストの使用例を調べて、問題の箇所を「解釈した」気になっている者は多いような気がしている。彼らはこれが「ふつうの」やり方であると考えている節があるが、じつはこれは、あくまで「歴史主義」の立場からの見方にすぎず、「ふつう」などではないのだ。ホイットマーシュ先生は、「理論アレルギー」の人は、文学の解釈に政治やイデオロギー―「理論」からイメージされるものの代表例だろう―を持ち込むことを嫌う、と話されていたが、たとえばテリー・イーグルトンなどが著書のなかで頻繁に述べているように、そもそも政治やイデオロギーと無関係な解釈など存在しないのだ。「理論アレルギー」の人は、自分が「中立的」ないし「客観的」(つまり政治やイデオロギーとは無縁)であると思い込んでいるようだが、そんなことはけっしてない。先の例でいえば、西洋古典文学研究で「ふつう」だと考えられている、「同時代使用例探し」をする者も、「歴史主義」に立っているという意味で、全然「中立的」でも「客観的」でもないのだ。そうであるのに、この「歴史主義者」は、自身のものの見方(方法論)に意識を向けておらず、「なんとなく」研究をしているのである。
ホイットマーシュ先生は、大学で、西洋古典学専攻の学生たちに「理論」を教える授業を担当しているそうで、その目的も、自身の研究姿勢に自覚的である人間を育てるため、ということだった。これは本当に大事なことで、僕も今後同じようなことをしたいと思っている。
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