今日の「西洋哲学」の講義では、「ソークラテース以前の哲学」をテーマとして、クセノパネース、パルメニデース、デーモクリトス、プロータゴラースの4人の哲学者を取り上げた(人物の取捨選択については、教科書にしている岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』にしたがった)。
学生からはさまざまな反応があったが、「パルメニデースの議論が難しかった」というコメントがとくに目立った。岩田(『ヨーロッパ思想入門』47~50頁)の解説にもとづきながら、「ある」の不生不滅の話をしたわけだが、学生にとってはこれがあまりに抽象的で理解しづらかったようだ。
僕にとっても、パルメニデースは、「ソークラテース以前の哲学者」のなかでとりわけ興味深い存在であり続けている。というのも、以前、納富信留先生(現東京大学教授)が、プラトーンの『パルメニデース』に焦点を当てた集中講義を京大で担当なさったことがあり、大学院生の僕もこれに参加させてもらい、たいへんな知的興奮を覚えたからだ。この対話篇は、プラトーンの十八番であるいわゆる「イデア論」―対話者の一人であるソークラテースの口をとおして紹介される―が、別の対話者のパルメニデースによって徹底的に批判される、という内容をもっており、その意味でかなり刺激的なのだ。納富先生は、パルメニデースが行う「イデア論の再検討」の意味合いを丁寧に解説してくださり、これをつうじて僕はパルメニデースに興味をもつようになった。また、分析用の補助資料として先生と一緒に読んだ、パルメニデース自身の著作(断片のみ残存)の内容にも強い関心を抱いた。この作品は、詩の形式―叙事詩の韻律であるヘクサメトロスで綴られている―で哲学を語る試みであるのだが、同じヘクサメトロス詩でも僕が常日頃読んでいたホメーロスやヘーシオドスの作品とはかなり異なる色合いをもつもので、たいへん驚かされたのを覚えている。この詩のなかで、パルメニデースは、「真理」を語る女神に促されるかたちで、上述の「ある」をめぐる議論を展開させていき、これがヨーロッパ哲学史の重大な一ページとなるのである(納富先生は、ちょうどこの集中講義の前後の時期に、『西洋哲学史I』に収録されることになるパルメニデースの解説論文を執筆されていたようで、このご作業があのスリリングな授業につながっていたのは間違いないと思う)。
パルメニデースの「ある」の議論については、次回の講義で補足をするつもりなので、また関連の勉強を進めておきたい。
【参考文献】
岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書、2003年。
納富信留「パルメニデス」(神崎繁・熊野純彦・鈴木泉(責任編集)『西洋哲学史I―「ある」の衝撃からはじまる』(講談社選書メチエ、2011年)所収)。
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