数日後に控えたNHK文化センター梅田教室での講座(詳しくは、2019.4.29の記事をご覧いただけると幸いである)の準備が、おおむね終わった。オウィディウス『変身物語』の冒頭にみえる、天地創造の物語について解説をさせてもらうのだが、準備の途中、少し気になることが出てきたので、そのことを簡単にメモしておきたい。
結論からいうと、天地創造の主体となる存在が、単に「神」(もしくは「自然」)とだけ呼ばれているのが、興味深いと思っている。関連の箇所は以下のとおり(日本語はあえて直訳的にしてある)。
Hanc deus et melior litem natura diremit.
nam caelo terras et terris abscidit undas
et liquidem spisso secreuit ab aere caelum;
神、そしてとてもすぐれた自然が、この争いを引き離した。
つまり、天空から大地を、そして、大地から海を、切り離し、
濃密な大気から澄明な天空を分離させたのだ。
(第1巻21~23行)
オウィディウスによれば、最初にあったのは「混沌」(Chaos、7行)のみで、そこでは、さまざまな物質が縄張り争いをしていたという。あとは引用のとおりで、「この争い」(Hanc ... litem)をやめさせたのが、「神」(deus)と「自然」(natura)であり、結果として天空と大地と海が出現したというわけだ。
天地創造については、ヘーシオドスも『神統記』のなかで語っており(116行以下)、これはオウィディウスも参考にしたはずである。このヘーシオドス作品では、最初に「混沌(カオス)」があり、そのあとすぐ「大地(ガイア)」が生じ、その「大地」が「天空(ウーラノス)」を生んだ、とされており、オウィディウスの「神」や「自然」に該当するものは出てこない。オウィディウスは、このヘーシオドスのヴァージョンを引き継ぐこともできたはずだが、そうはしなかった。中立的で透明な「神」(そして「自然」)に創造をまかせるという、この旧約聖書(『創世記』)的な処理の背後には、なにかオウィディウス流の意図があるのだろうか。
オウィディウスの説明ときわめてよく似た比較例をひとつ。ニュージーランドのマオリ族のあいだで伝わる天地創造神話だ。
最初、虚無または混沌があって、光も熱もなく、形も運動もなかった。しかしポーと呼ぶ暗黒のなかで動きとうめき声が起こり、しだいにかすかに光明が現れた。さらに、熱と湿気が展開して、しまいには確固たる大地と天が形を整えた。そのあと、天空神ランギと地母神の女神パパが現れた。二人はタネやタンガロアをはじめとする神々を生んだ。両親の抱擁に困った子どもたちは無理矢理二人を引き離そうとした。この企てにさいして兄弟で意見が合わず、彼らは互いに争い、それが、雷鳴などを引き起こした。しかしタネ神が逆立ちして足で天を押し上げて天地を分離した。
(後藤明『南島の神話』40頁)
オウィディウス作品でしきりに「分離」のイメージが使われている(diremit、abscidit、secreuit)ように、この神話でも、天空と大地が引き離されているわけだが、その実行者は、「神」や「自然」といった抽象的存在ではなく、実体性をもつ、ランギとパパの子どものタネなのだ。
『変身物語』は、学生の頃、授業で第1巻の最初から読んだ(その後、在学しているあいだ、結局全体の半分くらいは読んだと思う)が、そのときはこの「神」のことはまったく気にならなかった。カルチャーセンターの講座の当日までに、もう少し調査を進めておきたいと思う。
【参考文献】
後藤明『南島の神話』中公文庫、2002年。
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