ホフマンスタール『エレクトラ』の日本初演をめぐって

今年3月の刊行後すぐに入手したものの、積読状態になっていた、関根裕子『黙って踊れ、エレクトラ―ホフマンスタールの言語危機と日本』(詳細は下の出版社のリンクを参照)を、今日ようやく本棚から取り出した。読んでみたのは、現在僕が取り組んでいる「日本における西洋古典受容」の研究と関連する、第V章「松居松葉による『エレクトラ』日本初演」だ。以下はその簡単な備忘録。

 この章でテーマとなっているのは、松居松葉(まつい・しょうよう、1870~1933=明治3~昭和8)という演出家による、フーゴー・フォン・ホフマンスタール(1874~1929)の『エレクトラ』の日本での上演だ。これは、松葉率いる公衆劇団によって、1913年(=大正2年)に東京帝国劇場で行われたものだが、関根は、当時のさまざまな資料をもとに、その公演の内容および文化史的意義について論じていく。一次資料にもとづく関根の分析はたいへんスリリングなもので、僕は夢中でページを繰っていったが、とくに面白いと感じたのは、松葉がホフマンスタール宛ての書簡(1913年8月付)および自著『続劇壇今昔』(1926年)で示す、『エレクトラ』の理解度にかんする解説だ。結論的にいえば、松葉は「ホフマンスタールの『エレクトラ』について深い解釈こそできなかった」(301頁)とのことだが、そのことはたとえば、彼が書簡をつうじてホフマンスタールに尋ねた質問に見出せるという。松葉は、『エレクトラ』中でクリテムネストラが「すべてを呑み込んでは吐き出す海」(292頁)にたとえられていることについて、それを「哀れなエレクトラの運命を翻弄する巨人像、怪物」(292頁)とみなしてよいかどうかホフマンスタールに尋ねているが、関根によれば、これは的外れな解釈であるということだ。ホフマンスタールによるこの比喩は、バッハオーフェンの『母権制』における「太母」のイメージから生まれたもの(ホフマンスタールは『母権制』の熱心な読者だった)であるが、松葉はそこまで深い勉強ができていなかったというのだ。

 松葉は、『エレクトラ』の公演で、原作者ホフマンスタールの意図をじゅうぶん表現できなかったわけだが、これにかんしてもう一点面白いのは、関根の紹介する、森鴎外(1862~1922=文久2~大正11)によるホフマンスタール宛ての書簡の中身だ。ホフマンスタールから松葉の公演について尋ねられた(と推測される)鴎外は、返信の書簡でその様子を報告するわけだが、関根は、鴎外の筆致のなかに、松葉の公演にたいする彼の否定的評価を読みとる。「ドイツ留学の経験からドイツの演劇水準や劇場環境、さらに当時最新の演劇改革を知っていた鴎外は、日本の現状は比較するにも値しないことをよくわかっていたはず」(345頁)なので、松葉の『エレクトラ』を称賛することはできなかった、というのだ。ただもちろん、鴎外は、その見解をホフマンスタールにストレートに伝えることはできない(ホフマンスタールは松葉の公演に大きな期待を抱いていたようだ)ので、あまり深入りせずに「逃げるかのように手紙を終わらせている」(345頁)と関根はみる。

 松葉による『エレクトラ』の日本初演にかんして、関根は、「高い地点から醒めた目で観察していた鴎外の発言に如実に表れているように、単なる上演レベルの問題を超えた地点に、当時の他国との「出会い」に関する可能性と問題点を見て取ることができるのであり、その基本構造は現在の私たちにまでつながっている」(367頁)とまとめている。ある文化とある文化の「出会い」のありさまを分析することがアダプテーション批評なのだとすれば、関根の試みはその素晴らしい成功例とみなしてよいと思う。大満足の読書体験だった。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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