昨日(2019.6.15)の記事の続き。井上章一『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』(詳細は下の出版社のリンクを参照)の第五章にかんするメモ。
第四章で取り上げられていたのが、「伝播説」(=『百合若大臣』は『ユリシーズ』を土台としている、とする説)への学者たちの賛同だとすれば、第五章で井上が描くのは、この「伝播説」の衰退(1920・1930年代のこと)である。学界の認識の変化を生み出したとされるのは、山科言継(やましな・ときつぐ)という戦国時代末期の人物が残したとされる『言継卿記(ときつぐきょうき)』なる日記で、その1551年1月5日のところに、「京都で『百合若大臣』が演じられた」旨の記述があることが発見され、これを民俗学者の中山太郎(なかやま・たろう、1876~1947)が論文(1932年の「百合若伝説異考」)で取り上げたのだった。その主張はこうだ。「『百合若大臣』は、もし南蛮人経由の舶来種だとすれば、それは1543年(ポルトガル船が種子島に漂着した年)以後でなければならず、そうすると、京都での上演(1551年の正月)まで7年しかないことになり、これは翻案作成の期間としてはあまりに短すぎる」。ヨーロッパからやってきた(これも仮定にすぎないのだが)『ユリシーズ』がたったの7年で『百合若大臣』になるというのは、常識的に考えてあり得ず、こうして「伝播説」は一気に力を失ってしまう。
代わりに通説となるのが「国産説」(=『百合若大臣』は日本固有のもの、とする説)で、井上は例のごとくこれに与する学者たちの名前を挙げていくのだが、僕がとくに興味深く思ったのは、かの和辻哲郎(わつじ・てつろう、1889~1960)にかんする解説だ。彼は、1955年の『日本芸術史研究』において、『百合若大臣』のヨーロッパ起源説を明確に否定したのだが、面白いのは、彼はひたすらこの作品の内容面(どれだけ日本的か、あるいは、ギリシア的要素が混入しているのかどうか、など)に注目しており、(たとえば『言継卿記』などをふまえた)歴史学的な議論はいっさいしていない、ということだ。もはや「国産説」が当たり前になった時期にわざわざ「国産説」を主張した和辻は、「そういう解釈[内容面の解釈]のさえをしめすことに、著述家としてのプライドをもって」(396頁)いたのではないか、と井上は推察している。
気になるのは、それでは和辻は1900年代初め―坪内逍遥の「伝播説」に多くの識者が賛同した時期―は、『百合若大臣』のことをどうとらえていたか、ということだが、残念ながら関連の論考はなにも残していないようだ。かわりに井上が注目するのが、1919年に公にされた和辻の代表作の『古寺巡礼』で、その基本テーゼは、「ユーラシア大陸をとおって、ギリシア文明が東漸し、古代の奈良へ到達」したゆえ「大和とギリシアの古代美術が、たがいに通底しあう」(399頁)というものだ。坪内逍遥、新村出、南方熊楠といった著名人が『百合若大臣』の古代ギリシア起源説を唱えていたまさにその時期に、若年の和辻もまた、奈良の古美術が古代ギリシア芸術の影響を受けていると主張したのだった。和辻の立論には明らかに無理があるわけだが、井上は、そのようにしてできあがった彼の仕事について次のごとく述べる。
ともかくも、和辻は「希臘(ギリシア)」のほうが、「日本の古い事」より「偉大」だと思っていた。そして、そういう気持ちをのこしながら、なおかつ大和の古美術を評価しようとする。そのためには、大和がギリシア的であってくれなければ、ならなかったのである。『古寺巡礼』は、そんな和辻のファンタジーを、露骨に投影させた著作であった。(400頁)
若い和辻の頭のなかには、明らかに「西洋(ギリシア)=「偉大」」の図式があったのであり、『古寺巡礼』もそれにもとづいて執筆されたものだった。上述のごとく、和辻は『百合若大臣』のギリシア起源説については云々していないが、「潜在的には、賛成者であったとみなしうる」(400頁)と井上は推測している。妥当な見方だと思う。
僕の目下の研究テーマは「日本における西洋古典受容」で、だからこそ今回この井上書を手にとったわけだが、ほんとうに多くのことを学ばせてもらった。あらためて、明治時代以降の日本の知識人の拝外精神は興味深いと思った次第だ。
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