前回の「現代神話学」の講義では、フロイトの『夢解釈』(第5章)を取り上げ、「息子による父親への憎悪・母親への恋着」テーゼを支える物語としての『エディプス王』の話をしたのだが、学生のコメントシートに、「『エディプス王』以外でフロイトが持ち出す神話はないのか?」という旨の質問が複数みられた(論証の手段として、『エディプス王』だけではあまりに恣意的だと思ったのだろう)。そこで、明日の回では、この質問に答えるという意味で、フロイトが『エディプス王』の件の直後に提示する、シェイクスピアの『ハムレット』の議論を紹介することにした(もはや「神話」ではないが、仕方ない)。よく知られた議論であるかもしれないが、ここでは自分用に要点をメモしておきたい(なお、日本語訳はすべて岩波書店の全集版のそれである)。
フロイトが注目するのは、「ハムレットは何事でもやればできる人間なのだが、ただ一つ、彼の父を殺して母[=ガートルード]の傍らの座を占めているあの男[=クローディアス]に復讐を遂げることだけができない」(345頁)という点だ。この「ハムレットなぜぐずぐずしているのだ問題」については、数えきれないほどの説があるようだが、フロイトの解釈は次のごとくである。
その男[=クローディアス]は、ハムレット自身の抑圧された幼年期欲望を体現しているからである。それゆえ、復讐へと彼を駆り立てるはずの忌み嫌う気持ちは、彼の中で、自己非難ないし良心の呵責によって代替されてしまう。そしてこの良心の呵責は彼に向かって、本当のところは彼自身が、罰せられるべき罪人よりもましな者ではないのだ、ということを突きつけてくる。ハムレットの心の中では無意識に留まっていたに違いないものを私が意識に翻訳すればそのようになる。(345頁)
患者の無意識に迫る精神分析医フロイトの面目躍如といったところであろうか。彼にいわせれば、エディプス同様、ハムレットもまた、母親との結合を(意識の外で)望んでいるのであり、だからこそ、その「幼年期欲望を体現している」クローディアスを殺すことがなかなかできない、というわけだ。
面白いのは、事を起こすエディプスと事を起こさないハムレットの対比について、フロイトが、「抑圧が進行した」(344頁)と述べているということだ。「『エディプス』においては、心の生活の基礎にある子どもの欲望空想は、夢の中でのように明るみに出され実現されている」のにたいし、それから約2千年後につくられた「『ハムレット』では、欲望空想は抑圧されたままになっている」(344頁)ため、「進行」という表現が使われているわけだ。精神史的な観点からみると、これは興味をそそられる見解だが、フロイトは2つの悲劇のあいだにみられるこの大きな違いについて、これ以上突っ込んだ議論はしていない。西洋古典学徒としては、とくにエディプスの心理について云々したくなるが、ひとまず今後の課題ということにしておきたい。
【参考文献】
新宮一成(訳)『夢解釈』(『フロイト全集4 1900年 夢解釈I』(岩波書店、2007年)所収)。
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