今日の「西洋古典文化論」の講義では、エッカーマン『ゲーテとの対話』のなかで、ゲーテがソポクレース『アンティゴネー』について述べていることについて話をした(取り上げたのは「1827年3月21日水曜日」「1827年3月28日水曜日」「1827年4月1日日曜日」のセクションで、岩波文庫の日本語訳ではすべて下巻におさめられている)。
学生からの反応がもっとも多かったのは、やはりというべきか、『アンティゴネー』の904~920行―「本劇一番の物議をかもす部分」(中務訳書「解説」188頁)―をめぐる、ゲーテの見解についてだ。クレオーンを前にアンティゴネーが述べる台詞にあたるこの部分がなぜ「物議をかもす」のかというと、彼女の主張内容が、いささか非道徳的とみなされうるものであるからだ。それは簡単にまとめると次のようになる。今回のような決死の行動(=国家の掟を破って兄ポリュネイケースを埋葬したこと)は、対象があくまで自分の兄だからという理由による。死んだのが自分の子供か夫であったらこのようなことはしなかった。なぜなら、子供か夫であれば今後いつでも得られる可能性があるが、兄は、両親(オイディプースとイオカステー)がすでにいなくなっている以上、二度と得られないからである。
つまりアンティゴネーは、「子供・夫はいくらでも代わりがいるが、兄はそうではない」といっているのであり、これがゲーテにはたまらなく嫌だったようなのだ。彼の苦言は次のごとくである。
「『アンティゴネ[ー]』の中にも、私には、いつも汚点と思われる部分が一個所ある。有能な言語学者が、そこは加筆されたもので、偽作である、と証明してくれるなら、私はそのためにいくら払ってもいいと思う。つまり、この脚本の進行とともに、ヒロイン[=アンティゴネー]が、自分の行動の理由を堂々と語り、きわめて純情な気高い感情を展開する。その後、いよいよ死のうとするときに、彼女は、まったくろくでもない動機を持ち出す。それは、ほとんど滑稽といってもいいくらいだよ。彼女は、こう言う。自分が兄のために行なったようなことは、たとえ母となって子供に死なれたとしても、夫に死なれたとしても、なさぬであろう、と。…これがこの個所の言わんとしているところだ。私の感じでは、死んでいくヒロインの口にこんなことを言わせるのは、悲劇的な気分を削ぐと思う。そして、あまりにも詭弁的な計算が見え透いていて、じつに不自然に見える。―さっきもいったとおり、私は、立派な言語学者にこの個所が偽作であることを証明してもらいたいよ。」
(エッカーマン『ゲーテとの対話』日本語訳(下巻)115~116頁)
「(904~920行は)偽作であると学者に証明してもらいたい」と2回述べているのが、個人的には面白い。ゲーテの不満は相当なものだったにちがいない。
ゲーテは、問題のアンティゴネーの台詞が「不自然」だ、と文句をいっているわけだが、逆に考えると、これは、彼の頭の中に「理想のアンティゴネー」像があったということを示している。上の引用にも、「純情な気高い感情」などという表現がみえるが、ゲーテはアンティゴネーを、道徳的に欠点のない清純な乙女、ととらえているふしがある。たとえば彼は、上記引用とは別の箇所(日本語訳(下巻)127~128頁)で、「クレオーンとイスメーネーはアンティゴネーの引き立て役にすぎない」といった旨のことを述べているのである。アンティゴネーをかなり美化しているわけだ。
アンティゴネーの人間性をめぐるこの難問について、学生の立場は2つに分かれたようだ。「アンティゴネーはこれを本心で述べたのではない」と考えるのがそのひとつで、これは、アンティゴネーの道徳性を強調しようとするという意味で、「ゲーテ派」の立場といえるだろう。もうひとつは、「アンティゴネーもやはり普通の人間で、その愛は偏った性質のものだ」ととらえ、これは「反ゲーテ派」とみなせる。ちなみに、専門家のあいだでも、904~920行は真偽問題の対象となっているが、「いずれの立場をとるにしても主観的な感想に頼るほかな[い]」(中務訳書「解説」191頁)とのことだ。
【参考文献】
エッカーマン(著)、山下肇(訳)『ゲーテとの対話(下)』岩波文庫、1969年。
ソポクレース(作)、中務哲郎(訳)『アンティゴネー』岩波文庫、2014年。
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