アエネーアースの恋心?

D. C. Woodworth, 'Lavinia: An Interpretation'という論文を読んだ。とても古いもの(発表は1930年)だが、ウェルギリウス『アエネーイス』のラーウィーニア像について考えるときには必読の文献だ。

 この論文は、『アエネーイス』のなかのラーウィーニアにかんするパッセージをすべて(といっても数は多くはない)集め、そのデータをもとにこの人物の性格をとらえようとする試みである。その結論はきわめて明快だ。すなわち、沈黙を保ったまま周囲の状況(ないし運命)に動かされるだけのラーウィーニアは、「個性というものをもたない」(p. 194)、「ローマの娘の理想像」(p. 186)である、という。「ラーウィーニアのモデルはリウィア(初代ローマ皇帝アウグストゥスの妻)である」という主張に無理があったり、ラーウィーニアの内面を示すという意味で重要な「赤面」(第12歌64~69行)についてじゅうぶんな議論がなされていないなど、細かな問題はあるが、この基本テーゼ自体は間違っていないと思う。現在にいたるまで、ほかの学者も彼女と似たり寄ったりのことを言っている。

 この論文でひとつ面白かったのは、トゥルヌスはラーウィーニアに恋心を抱いていたが、アエネーアースのほうは彼女との結婚を政治的なものとしかとらえていなかった(つまり恋心など抱いていなかった)、という見解(pp. 193-194)である。これはテキストを素直に読めば導き出せる結論で、同意するしかなさそうだ。ただ、現代人読者としては悲しい気持ちにもなってしまう。ローマの礎をつくった花婿の心に「人間的熱情human passion」(p. 194)が存在しない、というのだから。

 ここで頭に浮かぶのは、それではこの同じアエネーアースは、ディードーのことはどう思っていたのか、という問題である。有名な洞穴のエピソード(第4歌160~172行)では、相手に夢中のディードーが単独で「これは結婚だ」と言い張っているわけで、そのときのアエネーアースの気持ちはなにも描かれていない。ということはやはりアエネーアースはディードーに恋心など抱いていなかったのか。これは少し早合点な気がする。そもそもアエネーアースにとってディードーは命の恩人(第1歌)で、彼は自分の辛い過去をすべて彼女と共有する(第2歌および第3歌)。この場合でも、アエネーアースが「人間的熱情」をもっていない、と言えるだろうか。少し時間をかけて考える必要がありそうだ。

【参考文献】

Dorothea Clinton Woodworth, 'Lavinia: An Interpretation', TAPA 61 (1930), 175-194.

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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