不在の人物を際立たせる叙述技法

Francis Cairns, Virgil's Augustan Epicの第7章'Lavinia and the Lyric Tradition'を読んだ。ウェルギリウスが『アエネーイス』で行うラーウィーニアの人物造形においては、ギリシア抒情詩における少女の描写の影響があるのでは、というのが基本的な主張。ただ今回は、この論点ではなく、ある別の議論に興味をもったのでメモしておく。

 その議論とは、叙事詩における人物描写の技法にかんするものである。Cairnsによれば、叙事詩では、ある人物の重要性が示されるとき、それは、他の登場人物による当該の人物へのリアクションをつうじて間接的な仕方でなされる、という(pp. 153-154)。簡単に言い直すと、人物Aの重要性は、人物B・C・D…による人物Aへの評価というかたちであらわされる、ということだ。

 そのわかりやすい例としてCairnsが挙げるのが、『イーリアス』におけるアキッレウス、そして『オデュッセイア』におけるオデュッセウスの描写である(pp. 154-155)。アキッレウスとオデュッセウスはそれぞれの作品の主人公ではあるものの、彼らは、面白いことに、作品の開始部で姿が隠されており、表舞台には出てこない。しかしながら私たち読者は彼らの物語上の重要性を認識することができる。その理由は、Cairnsにいわせれば、彼ら以外の登場人物が、不在のこの二人について頻繁に言及するため、ということになる。アキッレウスとオデュッセウスは、姿を見せないにもかかわらず、あるいはむしろ、姿を見せないからこそ、その存在が際立つのである。

 これにはなるほどと思った。Cairnsはまた、本題のラーウィーニアにかんしても、まったく同じ技法が用いられていると述べる(p. 155ff.)。ラーウィーニアは『アエネーイス』のなかでほとんど姿を見せないが、にもかかわらず、彼女の存在は読者に強く意識されることとなる。それはなぜなら、アキッレウス&オデュッセウスの例と同様、彼女以外の登場人物が不在の彼女の話を要所要所でするからである。

 ラーウィーニアの「不在性」は、男性作家ウェルギリウスによる「女性の声の抑圧」ととらえることが可能ではないかと僕は考えているが、今回のCairnsの論考をつうじて、これとはまた別の見方を学べたのは良かったと思う。

【参考文献】

Francis Cairns, Virgil's Augustan Epic, Cambridge, 1989.

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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