入門書のおもしろさ

必要があって、内田樹『寝ながら学べる構造主義』(詳細は下記リンクを参照)を駆け足気味に再読した。学部生の頃に初めて読み、それ以降も幾度か本棚から取り出してきた本だ。今回、ちょっとした気づきが2点ほどあったのでメモしておく。話がややこしくなる(あと、長くて読みづらくなる)のを避けるため、記事は今日(2019.1.22)と明日(2019.1.23)の2回に分けようと思う。

 というわけで1点目。「まえがき」で展開される、入門書の利点にかんする話。僕は、どんな分野であれ、いわゆる「入門書」を読むのが好きなのだが、内田氏も同じ考えをもっているようで、その理由として、以下のように述べている。

入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書がおもしろい」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考し、その問いの下に繰り返し繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。そして、知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。(p. 11)

ここを読んだとき、自分が入門書が好きな理由がわかった気がして、嬉しくなった。僕は、専門の分野でも、そうでない分野でも、入門書を専門書より好むのだが、その理由はどうやら、(内田氏が述べるごとく)前者が「答え」より「問い」を重要視するためのようだ。

 専門でない分野の専門書を読む場合は、そもそも著者と僕とのあいだに「重要な問い」が共有できていないため、いくら熱心に議論を追いかけても、著者の一生懸命さに共感できないのだ。きっとなにか革新的な「答え」は提示されているのだろうが、その意義がまったくわからないため、理解も表面的なもので終わってしまう。おもしろいはずがない。

 また、専門の分野の専門書を読む場合は、たしかに「重要な問い」はもとからわかっているので、著者と僕とのあいだに上で述べたようなズレは生まれない。というわけで、著者の「答え」に注目をすることになるわけだが、そこで行われる作業は、その「答え」の「検証」となってしまい、どこかスリルに欠けるのだ。「答え」の当否の「検証」は、僕はおもしろいとはあまり思わない。

 学者の知的営みのなかで僕が一番おもしろいと思うのは、「考える」ことだ。考えるためには、当然「(重要な)問い」が必要になる。入門書は、そういったものに「繰り返し繰り返しアンダーラインを引いてくれる」から、おもしろいのだ。「○○という問いがあるから、さあ、考えろ(ただし答えはないぞ)」と言われている気がして、頭の中が生き生きとしてくるのだ。

 この『寝ながら学べる構造主義』も、(タイトルから明らかなように)専門書ではなく、入門書だ。したがって、焦点が当てられるのは、構造主義における「問い」であって、関連の知識人(たとえば本書で「四銃士」と呼ばれるフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン)が提出した「答え」ではない。刺激に満ちた良書だと思う。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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