構造主義の「地ならし」をした古典文献学者としてのニーチェ

昨日(2019.1.22)の記事に続いて、内田樹『寝ながら学べる構造主義』(詳細は下記リンクを参照)について書きたい。久しぶりに読み返してみて、2点ほど気づきがあったのだが、今回は2点目のほうを扱う(1点目については昨日の記事をご覧いただきたい)。

 内田氏は、構造主義の主要人物(ソシュールおよび「四銃士」のフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン)の話をする前に、その「地ならし」をした存在として、マルクス、フロイト、ニーチェの3人について簡単に論じている。氏の見方によれば、構造主義の功績とは、私たちが主体として有していると信じ込んでいる「自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたこと」(p. 25)であるとのことだが、上記の3人は、まさに「自分の思考や判断にはいったいどれくらいの客観性があるのだろうか、ということを反省した」(p. 26)早い例であるとのことだ。

 ここで取り上げたいのは、内田氏が「人間の思考が自由ではないこと、人間はほとんどの場合、ある外在的な規範の「奴隷」に過ぎないことを、激烈な口調で叫び続けた思想家」(p. 40)として紹介する、ニーチェのことである。僕が面白いと思ったのは、氏が(哲学者になる前の)古典文献学者としてのニーチェに注目しており、そのうえで、「ニーチェは異他的な精神の活動に偏見ぬきで共感する能力を、おそらく古典文献学を通じて体得したのだろう」(p. 42)という見解を示していることだ。氏によれば、古典文献学者は、「過去の文献を読むに際して、「いまの自分」の持っている情報や知識をいったん「カッコに入れ」」(p. 41)る必要があり、その結果、ニーチェもまた、「現代人には理解も共感もできないような感受性や心性を価値中立的な仕方で忠実に再現する」(pp. 41-42)ことができるようになった、とのことだ。

 ニーチェがこのような「構造主義的」視点を保持していた例として、内田氏は、『悲劇の誕生』におけるコロス論の一節に触れている。そしてニーチェが自身の視点を「カッコに入れ」たうえで、古代ギリシャ人のコロス観を理解しようと努めている点に注目し、「ニーチェはギリシャ人の異他的なものに対する「共感の仕方」に「共感」している」(p. 44)と結論づけている。なるほどと思わせられる説明だ。

 僕も、若かりし頃のニーチェと同様、一応は「古典文献学者」の看板を出しているが、自分のこの立場が「構造主義的」であるとは考えたこともなかった。今回、内田氏の本で自分の専門について新たな視点を得られたのは、思わぬ収穫だった。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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