歴史哲学の書物としてのM・エリアーデ『永遠回帰の神話』

今日の現代神話学の講義では、エリアーデを取り上げ、とくに彼の主著である『永遠回帰の神話―祖型と反復』(1949年)を丁寧に紹介した。学生のコメントを読んで少しだけ考えたことがあるので、メモしておきたい。

 『永遠回帰の神話』の中心にある主張は、「「古代社会」は「(永遠回帰の)神話」を有効利用していたが、「近代社会」はそれを無視し、代わりに「(一回的・偶発的な)歴史」に重きを置いてしまっている」というものだ。学生の意見で目立ったのは、「エリアーデは、「近代社会」批判ありきで神話を論じている」というものだ。たしかにその通りかもしれない。僕も、「古代社会」を「神話を重んじる社会」とみなす必然性があるのかどうか、疑問に思っている。上記のコメントを書いた学生たちも、彼の議論における神話の位置づけが不明瞭だと感じたのだろう。

 ただ、エリアーデの弁護もできるように思う。というのも、そもそも『永遠回帰の神話』のテーマは、「古代社会と神話」ではなく、「近代社会と歴史」であるように思われるからだ。著者本人が冒頭部で、「多少野心的にすぎると見られるかも知れぬが、私は本書の副題に、「歴史哲学序説」の名を与えたい」(日本語訳p. 1)と述べていることがその理由だ。エリアーデは、近代社会で強大な影響力をもつヘーゲルおよびマルクスの進歩史観(彼はこれを「歴史主義」と呼んでいる)に待ったをかけるためにこの本を書いたのであり、その対立項である「古代社会と神話」は、どちらかというと「後付け」的な要素であるように感じられる。彼の神話の議論がどこか雑なのも、仕方ないことかもしれない。彼の目的は、歴史にとらわれてしまっている近代社会を批判することだったのだ。

 じっさい、本書のクライマックスである第四章は「歴史の恐怖」と銘打たれていて、そこでエリアーデはヘーゲルやマルクスを批判しており、穏やかな口調の裏に深刻な訴えが潜んでいるように感じる。幼いころから祖国ルーマニアの政治的混乱に翻弄され続けた彼は、人間のつくる歴史を楽観的にとらえるヘーゲルやマルクスをどうしても許せなかったのだろう。神話の議論が「そっちのけ」になるのもわかる気がする。

 『永遠回帰の神話』は、上で紹介したエリアーデ本人の言葉も勘案して、基本的には「歴史哲学の本」として読むべきだと思う。

【参考文献】

ミルチャ・エリアーデ(著)、堀一郎(訳)『永遠回帰の神話―祖型と反復』未來社、1963年。

 

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

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