数日後に控えている勉強会の準備のために、内林謙介氏による「プルタルコス『対比列伝』と英雄伝承―『テミストクレス・カミルス伝』の統一的解釈の試み」という論文(詳細は下の【参考文献】欄を参照)を読んだ。以下はその簡単なメモである。(なお、これ以降、内林氏の処理と異なり、すべての固有名詞に長音記号と促音を付している。)
この論文で内林氏が強調するのは、『対比列伝』を構成する伝記を「2人1組」で読むことの重要性である。周知のとおり、プルータルコスは、人物A(ギリシア人)と人物B(ローマ人)を2人1組にして伝記を書いている。本論文で取り上げられる『テミストクレース・カミッルス伝』でいえば、(この表記からもわかるとおり)プルータルコスは、テミストクレースとカミッルスを「セット」にして提示しているのであって、両人物を別々に(単独の存在として)扱っているのではない。しかし、これも内林氏が述べているごとく、現代において「広く読まれている翻訳の形式では、ばらばらに分解され年代順に並べ替えられ」ることが多いため、プルータルコスの意図に反して「『対比列伝』は、原典通りに読まれない」作品となってしまっている(77頁)。
プルータルコス研究(とりわけ欧米のそれ)の歴史は非常に長いが、驚くべきことに、原典のとおりに「2人1組」で読むことが重要視されるようになったのはごく最近(ここ20年くらい)のことにすぎない。内林氏は、このような研究の流れを受けて議論を進めるわけだが、その中心テーゼはきわめてシンプルなものである。すなわち、「2人1組」の伝記としての『テミストクレース・カミッルス伝』においては、テミストクレースはオデュッセウスに、カミッルスはアキッレウスに相当する人物として描かれている、という主張だ。つまり、ホメーロス叙事詩(『イーリアス』と『オデュッセイア』)において対をなす両主人公が、「2人1組」という形式を人物造型の面で支えている、という議論だ。
このテーゼを確かなものとすべく、内林氏はさまざまな証拠を『テミストクレース・カミッルス伝』から拾い出してくるわけだが、ここでは、読みながら僕が面白いと思ったことを一つだけ記しておきたい。プルータルコスは、テミストクレースの伝記においても、カミッルスの伝記においても、「主人公の仲間集団からの長期離脱」を描いている。テミストクレースの場合はギリシア人により陶片追放に遭い、カミッルスの場合はローマの民衆から激しく嫉妬された結果みずから亡命者となる。これらの描写にかんして、内林氏は、以下のごとく、テミストクレースをオデュッセウスと、カミッルスをアキッレウスとうまく接続させるのだ。テミストクレースの伝記においては、主人公の謎の多い亡命の様子(陶片追放後の様子)が異常に長く語られるが、これは、「プルータルコスが史実性を犠牲にしてでもテミストクレースをオデュッセウスに近づけようとした結果」である(82頁)。カミッルスの伝記にかんしては、「『対比列伝』は主人公に関わりのないことは歴史的に重要な事柄であっても大胆に省略するのが通例」であるにもかかわらず、「ローマの苦戦の場面が、カミッルスが登場しないまま10章近く続く」。これは、「『イーリアス』でアキッレウス不在の間、アカイア方が苦戦を強いられる長い記述を想起させるための手法」である(85頁)。これには僕もなるほどと思った。
「メモ」といいつつ、文章が長くなってしまった。いずれにせよ結論として僕がいいたいのは、内林氏の論文は、『対比列伝』を「2人1組」で読む際の重要な(そしてきわめて独創的な)視点を提供している、ということだ。
【参考文献】
内林謙介「プルタルコス『対比列伝』と英雄伝承―『テミストクレス・カミルス伝』の統一的解釈の試み」『西洋古典学研究』56、2008年、77~88頁。
0コメント