『アエネーイス』の女性たちの「消える身体」と「残りつづける声」

『アエネーイス』における女性の表象についてリサーチを続けているが、今日は、S. Georgia Nugentという研究者による、'The Women of the Aeneid: Vanishing Bodies, Lingering Voices'という論文(詳細は下の【参考文献】欄を参照)を読んだ。

 サブタイトルに示されているように、この論文が注目するのは、女性の登場人物の「消える身体(Vanishing Bodies)」と「残りつづける声(Lingering Voices)」だ。Nugentによれば、『アエネーイス』における女性たちの死の場面に注目すると、彼女たちの(物質性をそなえた)身体は無の状態にされてしまっている(つまり描写がゼロに等しい)にもかかわらず、彼女たちの「声」は残り続ける、というのだ。

 たとえばカミッラ。彼女は戦場で殺されるわけだが、その遺体の様子については描写がなされず、それはいつの間にかどこかへ消えていってしまっているのだ。これは、同じく戦場で命を落とすパッラース、メーゼンティウス、ニースス&エウリュアルスの場合と正反対である。男性である彼らの身体については、一定の分量、言語化されているのだ。このほか、ディードー、アマータ、クレウーサが死ぬときも、彼女たちの身体が具体的にどのような様子であったのか、われわれにはわからず、「死んだ」ということが知らされるのみである。ただ、Nugentの議論で重要なのは、別にこのような扱いをしているからといって、ウェルギリウスが彼女たちに興味をもっていないというわけではない、ということだ。それどころか、ウェルギリウスは彼女たちに「きわめて深い同情心(extraordinary sympathy)」(p. 269)を抱いており、死んでしまったあとでも(身体は消えてしまっても)、彼女たちの「声」(つまり作品内で与えられている台詞)は、読者の胸のなかに残りつづける、というのだ。僕もこの見解には賛成で、たとえばディードーのことを思い起こせば十分だろう。ウェルギリウスが彼女に嫌悪感をもっていたとはとても思えない。

 じつは、もともとこの論文を読もうと思ったのは、ラーウィーニアについて何かしらの情報を得たかったからだ。ただ、読み終わって、彼女のことがまったく取り上げられていない、ということがわかった。とはいえ、これはNugentの見落とし、もしくは意図的な無視というわけではなさそうだ。そもそも『アエネーイス』において、ラーウィーニアには、カミッラやディードーと異なり、ひとつの台詞(=「声」)も与えられておらず、「声」が「残る・残らない」の議論などできないのだ。したがって、Nugentが彼女を取り上げないのは、むしろ当然といえる(ちなみに、この「『声』をもたないラーウィーニア」の問題は、かのアーシュラ・K・ル=グウィンの小説『ラーウィーニア』において前景化されることになる)。

【参考文献】

S. Georgia Nugent, 'The Women of the Aeneid: Vanishing Bodies, Lingering Voices' in Christine Perkell ed., Reading Vergil's Aeneid: An Interpretive Guide (Norman, 1999), 251-270.

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

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