今日は、この3月に京都大学を定年退職される、高谷修先生の最終講義に出席させてもらった。僕は先生の直接の弟子ではないが、たとえば先生の『ギリシア・ローマ文学と十八世紀英文学―ドライデンとポープによる翻訳詩の研究』(世界思想社、2014年)などをつうじて、多くのことを教えていただいたので、今回の講義もぜひ拝聴したいと思った次第だ。専門的な議論を展開するのではなく、「私はいかに楽しく過ごしてきたか」について語る、ということで、僕も終始リラックスした気持ちで先生のお話を伺っていた。
講義題目は、「ダンテ、ウェルギリウス、そしてアリオスト」。90分間の中身はとても濃いものだったが、それを(不遜ながら)要約すれば、この三人の叙事詩人のかかわりあいを、各人の作品(『神曲』『アエネーイス』『狂えるオルランド』)を読みながら明らかにする、というものだ。配布資料がメモだらけになるほど多くのことを学んだが、ここではとくに印象に残ったことを2点だけ記しておきたい。
1点目は、ダンテの「自負心」の問題だ。「地獄篇」の第4歌に、ホメーロス・ホラーティウス・オウィディウス・ルーカーヌスという偉大な四詩人の輪のなかに、ダンテの案内人をつとめるウェルギリウスが「五番目」として入っていき、しばし談笑する有名な場面がある。先生が注目されたのは、このあと、「六番目」の詩人としてダンテが招き入れられる点だ。このパッセージを紹介されたとき、先生は、傲慢とも断じられかねないこの記述には、ダンテの詩人としての「自負心」がみてとれる、とおっしゃっていた。果たしてヨーロッパ文学史はこのグルーピングが間違いではないことを証明したが、それにしてもダンテの自意識はたいへん興味深いものだ。
2点目は、『狂えるオルランド』と『アエネーイス』の関係性にかかわること。先生は、それぞれの作品の冒頭部を引用し、いかにアリオストがウェルギリウスを意識しているかを強調された。二つのパッセージを見比べるとその類似性は明らかで、どうやらアリオストは、自身の作品を『アエネーイス』のように「真面目な」作品としてとらえるよう読者を誘導しているようなのだ。ただ、先生によれば、『狂えるオルランド』のなかには、ウェルギリウス的な「真面目さ」とはかけ離れたエピソードが多数含まれており、アリオストが目指したのはウェルギリウスとはまったく別のものだった、ということが想定できるようなのだ。先生は、『狂えるオルランド』のどぎついエロティシズムの例にいくつか触れられたが、たとえばこういったものを目にすると、この詩の世界観と『アエネーイス』のそれとはかなり異なるといわざるをえなくなる。『狂えるオルランド』が冒頭でテーマ化する「真面目さ」は、作品の内部で次々にひっくり返されていくのだ。この作品は、古典的叙事詩のパロディなのかもしれない。
それにしても、先生のように、複数のヨーロッパ語を深いレベルで理解し、さまざまな文学作品を原語で読むような学者は、今後なかなか現れないだろう。僕もいつか先生のようになりたいと思っているが、今はギリシア語・ラテン語で手一杯だ。ただ、これをマイナスにとらえず、ダンテやアリオストを原語でじっくり味わうのは、将来の楽しみにとっておきたいと思う。先生のように「楽しく過ごす」ためには、急ぐ必要などないはずだ。
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