『変身物語』を「変身」させた絵画

明後日、神戸新聞文化センター三宮にて、コッレッジョのギリシア神話画をテーマとした講演をさせてもらうのだが、準備の際にとても役に立ったのが、逸身喜一郎氏の『ギリシャ神話は名画でわかる―なぜ神々は好色になったのか』という本だ(詳細は下のリンクを参照)。備忘も兼ねて、読みどころを紹介しておきたい。

 この本では、オウィディウス『変身物語』の記述がもとになって作成されたと考えられる、ルネサンス・バロック期のギリシア神話画が取り上げられるのだが、考察の過程で、しばしば逸身氏は、オウィディウスの描写と絵画作品の相違点にスポットライトを当てる。そこで発生するメカニズムについて、逸身氏は次のように述べている。

画家は『変身物語』中のひとつの話を絵にする。絵にするということは、ことばでできた詩と同じではない。絵に固有の省略と添加がおきる。しかし私の思うところでは、それはオウィディウスがそれまでの神話を潤色した手続きに通じる。そして一度優れた絵ができると、その絵があらたな絵を作り出す原動力となる。ティツィアーノやルーベンスは、オウィディウスを素材にして、それぞれの神話をまた新たに「語り直していく」、節目の位置を占めているのである。(46~47頁)

要するに、ルネサンス・バロック期の画家は、『変身物語』を「変身」させたわけだ(逸身氏の指摘は、アダプテーション批評の観点からみると非常に面白いと思うが、これについてはまた別の記事で掘り下げたいと思う)。

 具体例をみてみよう。僕が今回とくに熱心に読んだ、コッレッジョを扱う章(第二章「ユーピテルの情事―コッレッジョの四枚」)では、彼の《ユッピテルとイーオー》が取り上げられる(下にある絵画がそれだ)。物語の詳細は、『変身物語』の第1巻で語られるのだが、じつは、逸身氏も指摘するように、コッレッジョはオウィディウスの記述に変更を加えている。コッレッジョの絵の上半分は黒い雲で占められているが、これはよくみると(イーオーの顔のあたりに注目してほしい)、雲に変身したユッピテルであることがわかる。イーオーに目をつけたユッピテルが、雲に変身したうえで、彼女にキスをしているのだ。面白いのは、ユッピテルの乱暴についてはオウィディウスも語っているものの、オウィディウスは、「ユッピテルが雲に変身した」とは一言もいっていない、という点だ。つまり、コッレッジョは、事件の枠組だけをオウィディウスから借用し、新たなディテールを、『変身物語』の流儀で―つまりユッピテルを雲に「変身」させるというかたちで―付け加えているのだ。

 ルネッサンス・バロック期の神話画においては、「『変身物語』の叙述がヒントになったことは間違いないが、ことばが肝心なところでそのまま絵画化されていないこと」(56頁)が往々にしてある。逸身氏の本は、そういった芸術上の「変身」の面白さを見事なかたちで伝えていると思う。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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