昨日(2019.2.22)の記事で、僕はアーシュラ・K・ル=グウィンの「アメリカ人はなぜ竜がこわいか」というエッセイを取り上げたが、これは、一言でいえば、文学擁護論としての想像力論であった。ル=グウィンは、文学(とりわけファンタジー)の源泉といえる想像力というものが、人間にとっていかに重要であるかを説いていたわけだ。
彼女の見解に僕は基本的には賛成だが、件のエッセイを読んだとき、これと内容的に関連する重要な議論があることを思い出した。それは、かのテリー・イーグルトンの「想像力批判」である。これは、彼の『詩をどう読むか』(日本語訳の情報は下のリンクを参照)のなかでごく簡単に展開されるのだが、なかなか考えさせられる話なので、以下、その要点をメモしておきたい。
ル=グウィンは、作家として想像力を擁護するわけだが、他方でイーグルトンは、文学研究者として、想像力を無条件に称揚することに疑惑の目を向ける。彼の皮肉交じりの見解をみてみよう。
われわれ[=文学研究者]ときたら、実在もしなかった人間や、実際には起こりもしなかった出来事についての本を読んで、飯を食っている。ふだんの生活では、空想上の人物がまるで実在するかのように話したりすれば、精神病よばわりされる。ところが大学では、それが文学批評と呼ばれるのだ。…彼ら[=文学研究者]は開き直って、自分たちはまるきり性質の違う、もっと高級な領野、つまり想像力の領分を扱っていると言いたい誘惑に駆られるのだ。だがそうだとすると、ちょっと奇妙なことに、この世に存在しないもののほうが、存在するものよりつねに貴重だということになる。(50~51頁)
たしかに文学研究者にとって、「想像力」という言葉は、水戸黄門の印籠のような役割をもっているかもしれない。これを出されたら、相手は何もできなくなるのだ。
ところでなぜイーグルトンはこのように想像力を批判するのだろうか。彼の議論で面白いのは、この「理由」をめぐる部分だと個人的には思っている。ふたたび引用。
想像力の働きは、決していつも有益無害というわけではない。ジェノサイド(民族の大量虐殺)を組織するには、かなり巨大な想像力を要する。銀行強盗がぶじ逃げのびるためにも、それなりの想像力が必要だ。連続殺人犯は、口にするのもおぞましい空想をたくましくしているかもしれない。世に知られる殺人的新兵器はどれも、まだ実現されていない可能性を心に思い描くことによって現実化したのだ。…それ[=想像力]は何巻もの詩集を世に送り出すこともあれば、戦争を引き起こすこともある。(54頁)
要するに、想像力は大犯罪を生み出す危険な道具にもなりうる、というのがキーポイントなのだ。ル=グウィンは、想像力が人間に「自由」をもたらす点を強調していたが、この力は、使い方によっては、人間に悲劇をもたらすことにもなるのだ。これはその通りだろう。
勘違いしてはいけないのは、イーグルトンが、想像力そのものを批判しているわけではない、ということだ。あくまでも彼は、文学研究擁護のために想像力を持ち出すことに懐疑的なのだ。しかしながら、想像力を頼みの綱とすることが不適切であるとすると、僕のような文学研究者は、普段いったい何をしていることになるのだろうか。残念ながらイーグルトンは、想像力に代わる文学研究の基盤を示してくれない(これは、彼が、唯物論を核とするマルクス主義の批評家であることと関係していると思われる)。想像力については、ほかにも重要な議論があるよう(たとえば、H・ガードナーの『想像力の擁護』)なので、引き続き考察を深めていく必要がありそうだ。
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