イタリアの人文主義者マッフェオ・ヴェジオ(Maffeo Vegio、1407~1458)による『補遺』(Supplementum、1428年)はすこぶる面白い作品だ。これは、630行から成るラテン語の叙事詩で、『アエネーイスの第13歌』という俗称をもつ。ウェルギリウスの『アエネーイス』は、その幕切れが唐突である―アエネーアースがトゥルヌスを殺したところで終わり、主題であるはずの「ローマ建国」は描かれない―ことで知られるが、ヴェジオの『補遺』は、この「続き」を描いた、奇妙奇天烈な作品なのだ(『アエネーイス』は全部で12の歌から成るので、ヴェジオの作品は「第13歌」とされるわけだ)。
今年のはじめあたりから、僕はこの「トンデモ叙事詩」についてリサーチを続けているが、今日は、『アエネーイス』の受容研究で有名なC. Kallendorfによる『補遺』にかんする面白い論考(詳細は下の【参考文献】欄を参照)を読んだので、以下では、『補遺』それ自体の紹介も兼ねて、Kallendorfの議論のポイントを簡単にまとめておきたい。
Kallendorfが注目するのは、『補遺』におけるスピーチ(=登場人物の台詞)の性質だ。Kallendorfによれば、本作には、全部で13のスピーチがあり(スピーカー別の内訳は、アエネーアース6・ラティーヌス2・ダウヌス1・ドランケース1・ウェヌス2・ユッピテル1となる)、これは作品全体のおよそ43パーセントを占めるので、量的には多いといってよさそうだ。Kallendorfも、「本作の劇的効果はスピーチによって表出されるのであり、登場人物は、動くactよりもむしろ話すtalkように思われる」(p.106)と述べている。
Kallendorfの基本的主張は次の2つだ。(A)『補遺』のスピーチで重要なのは、「美徳の称賛」と「悪徳の非難」であり、これは、15世紀のイタリア(=ヴェジオの時代)の演示弁論(epideictic rhetoric)で重んじられた要素である、ということ。(B)『補遺』のスピーチにおいては、常にアエネーアースが善玉で、トゥルヌスが悪玉として示される、ということ。たとえば、『補遺』の冒頭部―物語はトゥルヌスが殺されたところから始まる―におけるアエネーアースの第一スピーチ(『補遺』24~48行)では、トゥルヌスの一連の行動が徹底的に非難される一方で、アエネーアース本人は、トゥルヌスの遺体を無条件でイタリア人側に返還する、寛大な心の持ち主として提示される。また、『補遺』のなかでは最後のスピーチとなる、ユッピテルのウェヌスにたいするスピーチ(『補遺』607~619行)においては、アエネーアースが天上に迎え入れられることが約束され―ヴェジオはキリスト教の時代に生きていたことを忘れてはならない―、アエネーアースは絶対的善の存在とされる。要するに『補遺』は「勧善懲悪」の物語なのだ。
この「勧善懲悪」という点だが、明らかにヴェジオは『アエネーイス』を「楽観的視点comic vision」(p. 126)でとらえており、彼の白と黒をはっきり分けるような解釈(=アエネーアースは善人で、トゥルヌスは悪人である、という解釈)は、現代の『アエネーイス』の読者には受け入れがたいはずだ。Kallendorfはこのことを認めながらも、『補遺』の思想を否定したりはしない。20世紀半ばに登場した、いわゆる「二声論」―ウェルギリウスは、アエネーアースの戦争での勝利を称えているようにみえるが、じつはその負の側面を描くことも忘れていない、という見方―に慣れた現代の『アエネーイス』の読者は、本作(とりわけ結末場面)の「曖昧さ」を強調したがるが、これもある意味では20世紀という時代―世界で多くの戦争が起こり、多くの人が命を落とした―だからこそ生まれた見方である。現代の読者に「ヴェジオの見解は偏っている」と批判する資格はない。自分たちの見解も偏っているからだ。Kallendorfは、ヴェジオの『補遺』が、20世紀流の『アエネーイス』解釈を相対化する役目をもっていることを強調して、論考を閉じている。
【参考文献】
Craig Kallendorf, In Praise of Aeneas: Virgil and Epideictic Rhetoric in the Early Italian Renessance, Hanover, 1989.(今回取り上げたのは、第五章'The Aeneid Unfinished: Praise and Blame in the Speeches of Maffeo Vegio's Book XIII'である。)
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