今日の「西洋古典文化論」の講義では、ソポクレース『オイディプース王』の後半(イオカステーが神託・予言術にこだわるオイディプースをいさめる場面から、最後まで)の内容を紹介したうえで、蜷川幸雄の演出による《オイディプス王》のDVDを一部見てもらった(このDVDの詳細については、下のリンクを参照されたい)。収録されている公演(2002年、シアターコクーン)では、舞台の背後に巨大な鏡が設置されていて、基本的に演者たちは、この鏡を背にして話したり動いたりすることになっている。今回、この鏡の演出について、若干名の学生が(コメントペーパーのなかで)きわめて興味深い見解を示してくれたので、そのことについて簡単にメモしておきたい。
結論からいうと、その学生たちの見解とは、舞台の後ろにある鏡は「真実」の象徴なのではないか、というものだ。そもそも、オイディプース(野村萬斎)やイオカステー(麻実れい)は、「真実」を知るまでずっとこの鏡に背を向けており、自分たちがまもなく悲惨な体験をすることがわからない状態でいる。鏡の方など見向きもせずに、自分たちがこのたびの「テーバイ事件」と無関係だと思っている彼らは、まさに「真実」から目を背けている。そして鏡=「真実」というこの見方をもっとも明瞭なかたちで裏付けるのが、コリントスからの知らせの者の話によって、オイディプースの正体を知ってしまったイオカステーが発狂する場面だ。彼女は、話題が幼いオイディプースの遺棄のことになったとき、突然舞台の後方に歩いていき、鏡にしがみつき、それを手でひっかくような仕草をする。そして、コリントスからの知らせの者の話が終わったあと、彼女は、大きな叫び声をあげて、鏡の向こう側へと去っていくのである。鏡は「真実」をあらわしている、としか考えられない。
僕はこれまで蜷川の《オイディプス王》を何度も繰り返し見てきたが、鏡が上記のような役割を果たしていると考えたことは一度もなかった。「不思議な演出だな」という程度の感想しか持っておらず、自分の批評眼の鈍さがただただ恥ずかしい。今回アイデアを提供してくれた学生たちには本当に感謝している。あと、ひょっとすると蜷川自身、彼の演劇論の本のなかで関連の問題に触れているかもしれない。注意しておきたいと思う。
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