鶴見祐輔とトマス・カーライル『英雄崇拝論』

プルータルコス『英雄伝』は、これまでさまざまなかたちで日本に紹介されてきたが、その受容の歴史において、鶴見祐輔(つるみ・ゆうすけ、1885~1973)の存在はとくに重要だ。官僚・政治家として活動していた彼は、その本業のかたわら、『英雄伝』のすべてを日本語に訳し(ただし英語からの重訳)、彼の訳書は戦前・戦後の日本で広く読まれたのである。

 鶴見に『英雄伝』の全訳という大仕事をさせたのは、まちがいなく、彼の「英雄」的存在への愛だった。彼は『英雄待望論』なる本を書いたりもしているわけだが、今回テーマにしたいのは、彼とトマス・カーライル(Thomas Carlyle、1795~1881)の『英雄崇拝論』On Heroes, Hero-Worship, and the Heroic in History(1841年)の関係だ。上品和馬『広報外交の先駆者 鶴見祐輔 1885-1973』(詳細は下の出版社のリンクを参照)に関連の記述があるのを見つけたので、読んでみた。

 第一高等学校時代、鶴見は数多くの洋書を読んだようで、そのうち彼の思想に多大な影響を与えたのが、三年生の夏休みに出会った『英雄崇拝論』であったとのことだ。この本は、鶴見が生まれる前にすでに日本語に訳されていて、その後も別の日本語訳が複数出た(なぜこのように『英雄崇拝論』が積極的に近代の日本に紹介されたのか、という問題は興味深い)のだが、英語が得意であった鶴見は原書で読んだらしい。鶴見がとくに共感を覚えたこととして紹介されているのが、以下のカーライルの議論だ。

いつの時代にも、偉人[=英雄]の存在も英雄崇拝も認めない人がいるが、実際はどの時代においても偉人は求められる。人間なら誰しも優れた者を尊敬することによって、自分がより高くなったと感じない者はない。この英雄崇拝の情操こそが、革命による破壊を遮り、破壊された社会を復興させるものである。自分よりも優れた者を妬み、これを袋叩きにする社会は滅び、優れた者を尊敬して、彼に指導的な地位を与えて前進する社会は興るのである。

(上品『鶴見祐輔』50頁)

上品の言葉を借りれば、鶴見が重視したのは、「偉人が大衆を善導するという考え方」(50頁)であり、鶴見自身も、「自分が政治家というリーダーになることで、日本国民を善導し国家のリーダーシップを執ろうと考えた」(115頁)ようだ。

 鶴見が、このカーライル流の「強力なリーダーシップをもつ英雄」に心惹かれたのだとすれば、彼がプルータルコスの描く「英雄」たちに興味を覚えた(そしてけっして少ないとはいえない分量の『英雄伝』を全訳した)というのも納得がいく。なぜなら、プルータルコス作品の主人公も、基本的には、国家や軍隊といった大きな集団をコントロールしようとした、強い精神をもつ政治家や軍人だからだ。なので逆に、『英雄崇拝論』の(強烈な)読書体験がなければ、鶴見がプルータルコス作品に向かうことはなかったかもしれない、とも推測できる。

 いま僕は、近代日本の「英雄」観についてリサーチを進めているが、今回の鶴見の例からもわかるように、カーライルの『英雄崇拝論』の影響力は相当大きかったのではないかと考えている。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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