このところ、文筆家の澤田謙(さわだ・けん、1894~1969)による『少年プリューターク英雄伝』(1930年)が、日本文学史のなかでどのように位置づけられるか、という問題について考えている。当初は、「伝記」の系譜に入るのだろう、と当てずっぽうで思っていたが、日本文学史についてあれこれと調べるなかで、どうやら事はそれほど簡単ではないことに気づいた。僕にとって重大な発見は、そもそも、日本文学史においては、「伝記」というジャンルを認めるのが困難なのではないか、ということだ。
ただ、日本文学について僕は完全な素人なので、この判断にはなかなか自信をもてないでいた。僕の単なる知識不足・調査不足である可能性も大いにあるからだ。そのようななか、今日、かの中野好夫の名著『伝記文学の面白さ』(詳細は下のリンクを参照)を読んでいて、僕の考えを支えてくれるような記述に出会った。以下がそれである。
まず、中国人というのが人間に対する非常に深い興味をもった国民だということが、生み出している伝記書から言えます。歴史と伝記のあいだはどこが限界か非常にむずかしいところですが、そういう個人に対する興味をもった国民だということがわかります。お隣りの海一つ隔てた日本ではそういうものはどうもあまりなかったようです。その次には古代のローマ人というのがこれまた人間に対する興味をもった者が多かったと見えまして、ローマ時代に非常にすぐれた伝記書があります。さらに次いではルネサンスころから、イタリアに伝記文学のすぐれたものがあります。近世になりますと、これはどういうわけかイギリス文学、つまりイギリス人が人間に対する興味が非常にすぐれて旺盛だと見えて、これはフランス人やらドイツ人も認めているようですが、伝記文学のいいものを生み出してきたのがイギリス人です。
(中野『伝記文学の面白さ』10~11頁、下線筆者)
中野は、たとえば司馬遷の「列伝」(『史記』の一部)をもつ中国との比較で日本のことに言及しているわけだが、下線部をパラフレーズすると、「日本では(中国と異なり)伝記文学が大きなジャンルを形成することはなかった」ということになるだろう。古今東西の文学に精通している中野がこう述べているのをみて、僕は上記の自分の判断が的外れなものではないと思えるようになった(ちなみに、引用のなかで中野も触れているが、僕は、「伝記」が流行したローマ時代の文学を長年研究してきたので、「伝記」というジャンルはどの国にもあるだろうという誤った前提に立ってしまっていた)。
ではそうすると澤田の『少年プリューターク英雄伝』は日本文学史においてどのように位置づけられるのか。澤田の試みが文学史的にみて例外だった(あるいはsui generisだった)のかといえば、僕はまったくそう思っていない。素人なりの仮説を述べることが許されるならば、日本では、「伝記」のジャンルが発達しなかったかわりに、「偉人伝」のジャンルが存在しているのであり、澤田の『少年プリューターク英雄伝』は、まさにここに属するのではないか。僕の見立てでは、このジャンルの発展において重要なのは小学校の「修身」の授業(現在でいう「道徳」の授業で、これは国家主義的思想を定着させるためのものだった)で、その教科書には、二宮金次郎やナイチンゲールといった「偉人」のエピソードが数多く掲載されていたようだ。これが起点となって、少しずつ「偉人にかんする書きもの」が教育現場を離れたところでも現れ(たとえば澤田も『少年倶楽部』などにその類の文章を頻繁に寄せていた)、最終的にジャンルとしての「偉人伝」が成立したのではないだろうか。
これは現在のことを考えればよりわかりやすくなる。たとえば野口英世やキュリー夫人の生き様をまとめた本があったとして、その想定読者は基本的には小学生くらいの子供たちであるはずだ。こういった著作物は、(西洋的な意味での)「伝記」とは呼びづらく、そうするとやはり「偉人伝」というカテゴリーがしっくりくる。これは日本独自のジャンルと考えてもよいかもしれない。
【参考文献】
江島顕一『日本道徳教育の歴史―近代から現代まで』ミネルヴァ書房、2016年。
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