聖書との付き合い

毎週火曜日の「西洋哲学」の講義、前回は旧約聖書、そして今日は新訳聖書をテーマにした。教科書にしている岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、2003年)の解説にしたがいつつ、とくに重要な部分のみを紹介するというスタイルだ。

 それにしても、自分が大学で聖書について講じるようになったということに、正直とても驚いている。僕はクリスチャンであるわけではなく、聖書をはじめて読んだのも、学部1回生の頃のことだ。東京にあるキリスト教系の大学で英文学を学んでいたのだが、聖書を手にとったのは、そのときリーディングの授業を担当してくださっていた先生のある一言がきっかけだ。いまでもはっきり覚えているが、その先生は、僕たち学生の聖書にかんする知識の乏しさ―教材のなかで関連の記述が出てきたとき、学生はその意味するところがまったくわからない―を嘆きながら、こうおっしゃった。「この大学の学生は、一昔前はクリスチャンが多く、聖書の知識でつまずく者は少なかったが、最近は、非クリスチャンの者が偏差値だけを基準にして入ってくるから、こちらが聖書について基本から教えてあげなくてはならない」。先生のうんざりしたような表情をみたとき、聖書の知識がほぼゼロ(!)だった僕は、「これは急いで勉強しなくてはいけない」と思い、授業後、生協でコンパクトサイズの新共同訳をよく分からぬまま購入したのだった。

 このとき買った聖書は、いまにいたるまでずっと使い続けている。最初は、入門書や解説書の類を参考にしながら、有名なエピソードだけを拾い読みしていたが、聖書特有の叙述形式に慣れていくにしたがって、「ズル」なしの読み方(前から順番に読むということ)が精神的負担をともなわずできるようになっていった。ただ、それでも「素人」の域をいまだ出ていないのはいうまでもない。

 学生に書いてもらったコメントをみると、聖書の内容にひどく戸惑うことを示す記述が目立つ。学生時代に聖書でさんざん苦労した僕は、彼らの表明する違和感がとてもよくわかる。とはいえ、わずかながら読解のハードルを下げることはできたと思っているので、あとは学生たちの聖書への自発的な接近を願うのみだ。

 

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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