フロイトの『夢解釈』と『アエネーイス』

明日の「現代神話学」の講義では、フロイトが『夢解釈』のなかで提示する「エディプス・コンプレックス」の話をする予定だ。準備を進めるなかで、以前からずっと気になっていた論文が1本あったので、読んでみた。それは、Gregory A. Staleyという研究者による'Freud's Vergil'というものだ(詳細は下の【参考文献】の欄を参照)。フロイトと古典古代については、彼が『文化の中の居心地悪さ』で古代ローマを「心的存在」(psychisches Wesen)と呼んでいることにしばしば言及がなされるが、Staleyも、この記述を出発点として、フロイトが、ウェルギリウス―古代ローマ第一の詩人である―の『アエネーイス』を著作のなかでどのように利用しているかということについて論じていく。

 読んでみて僕がもっとも興味深く思ったのは、『夢解釈』冒頭のエピグラフにかんするStaleyの議論だ。そのエピグラフとは、「もし私が天上の神々の心を変えることができないのならば、アケローン[冥界を流れる河]を動かそう」(flectere si nequeo superos, Acheronta movebo)というもので、じつはこれは、『アエネーイス』の第7歌312行からとられているのだ。「私」とは、主人公アエネーアースのことを憎んでいる女神ユーノーのことで、彼女は、アエネーアースによる「ローマ建国」の大事業をもはや阻むことができないことを認識し、そのかわり、イタリアに大きな戦争を引き起こすことでその実現をできるかぎり遅延させようと画策する。彼女は、天上世界のユッピテル―この神がアエネーアースの運命を決める―の気持ちはもはや動かせないということで、地下世界からアッレクトーなる女神を呼び出し、関係者全員に戦争を始めさせるよう指示するのだ。

 Staleyの問題意識は、なぜフロイトは『夢解釈』のエピグラフにこのユーノーの言葉を選んだのか、というものだ。さまざまな解釈の可能性が挙げられているが、とくに面白いと思ったのが、考古学との類比関係をふまえた読み方だ。フロイトは、トロイアーの遺跡を発掘したかのシュリーマンを敬愛しており、精神分析学をしばしば考古学と類比的にとらえていた―どちらも「隠された真実」の発見を目的としている―という。このことをふまえると、「アケローンを動かそう」という言葉によって暗示されているのは、ウェルギリウス流の地下世界の様子を明らかにしたい―これは、「無意識」の性格を明らかにしたい、と読み替えることができる―というフロイトの欲望である、という解釈ができるわけだ(以上、118~119頁)。

 これに関連して、もうひとつ僕の興味を引いたのが、「ウェルギリウスはフロイトの先輩である」というStaleyの指摘だ。彼は、ホメーロスに比べ、ウェルギリウスのほうがより心理学者らしいことをしていると主張し、その例として、『アエネーイス』の序歌における詩人のひとつの言葉(第1歌11行)を持ち出す。アエネーアースにたいするユーノーの暴力行為に言及したあと、詩人は、「天上の神々の心にこれほどの怒りが宿るのか?」(tantaene animis caelestibus irae?) と述べており、これはStaleyにいわせれば、「心理学的なコメント」であるという。面白いのは、『夢解釈』が出版された3年後の1903年に、リヒャルト・ハインツェ(Richard Heinze、1867~1929)というドイツの古典学者が、『ウェルギリウスの叙事詩の技法』(Virgils epische Technik)なる研究書―20世紀の『アエネーイス』研究に絶大な影響を及ぼした書物だ―を公にし、そこで、ウェルギリウスの「心理学者らしさ」を強調した、ということだ(以上、125頁)。フロイトとハインツェの関係について、僕は知識をもっていないが、いずれにせよ、20世紀初頭に、『アエネーイス』と心理学の親近性が注目を集めていたというのは、何かを意味していると思われてならない。

 一般的には、フロイトといえば「エディプス(=オイディプース)の神話」のイメージが強いが、じつはウェルギリウスの描くローマ建国神話も、フロイトの思想を論じるうえできわめて重要なのだ。今回のStaleyの論文は、その具体的側面のひとつにスポットライトを当てているという意味で、僕にとって非常に勉強になった。

【参考文献】

Gregory A. Staley, 'Freud's Vergil' in Vanda Zajko and Ellen O'Gorman eds., Classical Myth and Psychoanalysis: Ancient and Modern Stories of the Self (Oxford, 2013), 117-131.

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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