『ユリシーズ』と『百合若大臣』(その一)

ここ数日、移動時間などを利用して、井上章一『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』(詳細は下の出版社のリンクを参照)の第四章と第五章を読んでいた。この2つの章で井上が取り上げるのは、ホメーロスの『ユリシーズ』(『オデュッセイア』の英語タイトル)と幸若舞(こうわかまい)の作品である『百合若大臣(ゆりわかだいじん)』の関係性をめぐる、複数の知識人の学説だ。備忘録ということで、今日の記事では第四章を扱い、第五章については、明日(2019.6.16)の記事で取り上げようと思う。

 そもそもなぜ『百合若大臣』と『ユリシーズ』なのかといえば、両作品が、その時間的・空間的隔たりにもかかわらず、きわめてよく似た物語展開を有しているからだ。その展開の仕方は、「遠征先の大規模な戦いで勝利をおさめた男が、帰路において災難にあい、帰国後、自身の家族を悩ませていた悪辣な者たちに復讐をとげる」とまとめることができる。『百合若大臣』では、高麗にてモンゴルの大軍をうち破った百合若が、部下の裏切りにあい無人島に置き去りにされるが、通りがかりの船に乗せてもらうことで帰国を果たし、妻に言い寄っていた男(モンゴル軍との戦いにおける百合若の部下)に天誅を加える。『ユリシーズ』では、トロイアーでの戦いで活躍したイタケー(ギリシアにある島)の王ユリシーズが、帰路、海難にあうが、漂着先の人物の親切で故国に戻ることに成功し、長らく妻(と息子)に精神的苦痛を与えていた者たちを皆殺しにする。類似は物語の大枠だけにとどまらず、さまざまな細部においても見出せるようで、たとえば、主人公のペットの動物が印象的な仕方で現れるというのがそのひとつだ。『百合若大臣』では、緑丸という鷹が出てくるのだが、これは『ユリシーズ』における主人公の愛犬アルゴスと対応しているとみなせる。

 この明白な類似性をめぐって、とくに明治時代末期から大正時代(西暦でいえば20世紀初頭)にかけて、知識人の見解は、「伝播説」(=『百合若大臣』は『ユリシーズ』にもとづいてつくられた、とする)と「国産説」(=『百合若大臣』は日本独自のもので、『ユリシーズ』とはいっさい関係ない、とする)に分かれたとのことだ。井上は、この論争に参加した学者たちのさまざまな見解を手際よく紹介していくわけだが、そこで主人公とされているのが、かの坪内逍遥(つぼうち・しょうよう、1859~1935)である。彼は、明治39年(1906年)に発表した「百合若伝説の本源」という論考で「伝播説」をうち出し、これが長きにわたる百合若論争の出発点となった。ただ、坪内は、『百合若大臣』が『ユリシーズ』にきわめてよく似ている、というだけの理由で議論を進め、伝播の根拠となる一次資料を示したわけではない(ちなみに、そのような資料はこれまでにひとつも見つかっておらず、坪内のように「伝播説」を唱える者は、現在ではほとんどいないとのことだ)。

 井上は、この坪内説に反応した著名人を何人か紹介していく。その最初期の一人が、『広辞苑』で有名な言語学者の新村出(しんむら・いずる、1876~1967)で、彼は、明治43年(1910年)の「西洋文学翻訳の嚆矢」なる論考で、坪内説に賛同し、坪内が触れずに済ませていた、ユリシーズ物語の伝播経路まで仮説的に示してみせた。このほか、神話学者の高木敏雄(たかぎ・としお、1876~1922)や民俗学者の南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867~1941)も坪内説を肯定し、こうして「伝播をしめす実証的な根拠がないのに、ユリシーズ起源説はオーソライズされて」(268頁)いった。「伝播説」を否定する者としては、歴史家の津田左右吉(つだ・そうきち、1873~1961)などがいたようだが、彼のような立場は少数派だったとのことだ。

 実証的根拠を欠く「伝播説」=「ヨーロッパ渡来説」がもてはやされたのは、当時のいわゆる「脱亜入欧」の精神ゆえではないか。『百合若大臣』と『ユリシーズ』のつながりを強調した知識人たちは、きっと無理矢理にでも日本の文化をヨーロッパのそれと連結させたかったのだろう。面白いのは、百合若論争が盛り上がっていたのと同じ20世紀初めに、毛利元就の「三本の矢」の物語や、中世の御伽草子である『天雅彦(あめのわかみこ)物語』も古代ギリシア起源とみる学者がいた、ということだ(前者についてはイソップ寓話の「兄弟喧嘩をする百姓の息子たち」のなかに、後者については「エロースとプシューケー」物語のなかに類似物を見出せるそうだ)。学問世界でのこの現象について、井上は、「近代以後の舶来趣味が、二十世紀初頭には、伝説や物語の解釈という営為へ噴出した」(292頁)と述べている。当時の西洋古典受容の一側面をあらわしているという意味で、非常に重要な指摘だと思う。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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