社会階級を正当化する神話

今日は「現代神話学」の講義の初回だった。この講義は、19世紀後半から20世紀半ばにかけて次々に現れた、神話をめぐるさまざまな学説を紹介することを主眼としたものだが、今回はイントロダクション風に、そもそも神話とは何か、ということについて話をした(なお、授業を進めるにあたり、吉田・松村『神話学とは何か』の第1章「神話とは何か」を参考にしたことを先に記しておく)。

 神話とは基本的に起源神話である、という(エリアーデ流の)考え方を前提に、世界各地の起源神話の具体例を紹介したのだが、そのなかでとくに学生の興味を引いたのが、女媧による人類創造の神話(中国の『風俗通義』)と原人プルシャの死体化生神話(インドの『リグ・ヴェーダ讃歌』)だ。女媧の手になるものは、丁寧につくられた人間と手抜きしてつくられた人間の2種類に分かれ、のち前者は高貴で富裕な人間になり、後者は卑しく貧しい人間になったという。プルシャは神々によって生贄とされ、結果、口からはバラモン(祭司)、腕からはクシャトリア(王族)、眼からはヴァイシャ(庶民)、足からはシュードラ(奴隷)が生じたとされる。2つの神話に共通する要素は「社会階級」で、学生のコメントで多かったのも、両神話は、上流階級の人間たちが既存の社会階級を正当化する(そして自分たちの立場を確固不動のものとする)ためにつくったのではないか、というものだ。

 この見解が正しいかどうかはわからない(不勉強な僕の今後の課題である)が、いずれにせよ嬉しかったのは、当該の学生たちが、僕が授業内でとくに触れなかった「神話のつくり手」に目を向けてくれた、ということだ。「作者の不在」は神話のひとつの特徴で(cf. 松村『神話学入門』9頁)、「○○の神話をつくったのは誰か?」と問うのは、基本的にナンセンスである。しかしながら、誰かしら人間が神話をつくった、というのは動かしようのない事実で、神話作成(および神話伝達)に携わった人間は、ある程度意識的に、自分にとって都合の良い考え方を神話のなかに混ぜ込ませただろう。この意味で、神話のなかには、多かれ少なかれ、(広い意味での)イデオロギー性や政治性が含まれているはずで、それは一部の人間(とりわけ社会の上層にいる者たち)の既得権益の維持に役立てられた可能性もあるのだ。神話は「真実」である、という見方がある(cf. 松村『神話学入門』8~9頁)が、女媧やプルシャの物語が「真実」を提示したものとして伝えられつづけたとすると、これはいささか恐ろしいことである。

 神話のイデオロギー性や政治性については、次回、コメントにたいするレスポンスをするときに、簡単に触れたいと思う。

【参考文献】

大林太良ほか(編)『世界神話事典』角川書店、1994年。

松村一男『神話学入門』講談社学術文庫、2019年。

吉田敦彦・松村一男『神話学とは何か―もう一つの知の世界』有斐閣新書、1987年。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

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