今日の「西洋古典文化論」の講義では、ソポクレース『オイディプース王』の前半部(オイディプースとクレオーンの口論をイオカステーが止めるところまで)の紹介をした。
解説のなかで大きく取り上げたのは、本劇の肝ともいえる、「劇的アイロニー」(dramatic irony)だ。ラーイオス殺しの犯人を見つけ出そうと、オイディプースは必死になるわけだが、観客はそれがオイディプースであることを最初から知っていて、この「舞台上の人物と観客とのあいだにある知識量(情報量)の差」を利用することにより生まれるものこそが「劇的アイロニー」である。これに関連してとくに面白いのが、「目は見えていないが真実は見えている」予言者テイレシアースのことを、「目は見えているが真実は見えていない」オイディプースが徹底的に非難する場面だ。学生と一緒に両者のやりとりを(日本語訳で)読みながら、僕は、オイディプースによる一連の言動がいかに滑稽なものであるかを強調した。
その結果といおうか、オイディプースによる「ブーメラン」的台詞にかんして、笑顔を見せる学生はかなりいた。ただ他方で、授業後に書いてもらったコメントで、「オイディプースがかわいそうに思った」「オイディプースが不憫に思えた」「オイディプースは、たしかに滑稽ではあるけれども、馬鹿な人間とは思えない」といったものも多くあり、これには本当に感心した。「神様」的な全知の視点をもつ僕たち観客(ないし読者)は、オイディプースの愚鈍さを笑うことができるが、オイディプース自身は、限定的視点しかもたない普通の「人間」として、大真面目に犯人捜しをしている。この意味で彼は間違いなく哀れな存在なのであって、上記のようなコメントを残した学生は、この点を見逃さなかったのだ。
「悲劇と喜劇はコインの裏表」「本人にとっては悲劇だが、傍からみれば喜劇」といったことはしばしばいわれる。今回は、『オイディプース王』の喜劇性に力点を置いたが、次回は、その悲劇性について話をすることになりそうだ。
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