今日の「西洋哲学」の講義では、アリストテレースを取り上げた。教科書にしている、岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、2003年)にしたがって、主に彼の倫理と政治にかんする考え方について話したのだが、前者にかかわることで、学生の印象的なコメントがあったので、簡単に紹介しておきたい。
話の材料にしたのは、『ニーコマコス倫理学』における有名な議論である。アリストテレースは、あらゆる行為が「善」を目的としている、というテーゼから出発する(1094a)。どのような行為も、「目的手段の連関のもとに一定の階層的構造をなして」(岩田書75頁)おり、それはすべて「善」につながる、というわけだ。これをふまえて、アリストテレースは、もう少し先(1095a)で、「最高善」の話をする。この概念は、「すべての行為がそのためにおこなわれるが、それ自身はなんのためでもない、というようなもの」(岩田書75頁)であり、アリストテレースによれば、それは「幸福」であるという。
私たちのあらゆる行為は「幸福」のためである、というこの見解は、一部の学生に強い印象を与えたようで、たとえば、「「幸福」のためにやっている、と考えれば、どのようなことでもやる気になる」「「なんのためにこんなことしているのだろう」と思うことがよくあるが、それもすべて「幸福」につながっているとするなら、有意義なものとみなせるかもしれない」といった趣旨のコメントがいくつかあった。この学生たちは、アリストテレースの「幸福」にかんする議論を、毎日の行為のモチベーションになるものととらえたようなのだ。
この類の反応は予想していなかったことなので、少しばかり驚いた。そして同時に、アリストテレースの議論に意外な実践的側面があることを発見できたので嬉しかった。僕は、「人生に無駄なことなどない」と考えながら毎日を生きているが、これもじつは、アリストテレース的な生き方(?)なのかもしれない。
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