ユングの「エレクトラ・コンプレクス」

今日の「現代神話学」の講義では、ユングの神話論を取り上げ、とくに彼のフロイト理論への反応の仕方に重点を置いて話をした。解説の材料にしたのは、「エディプス・コンプレクス」という題名の講演録(『創造する無意識』所収)で、ここで提示される「エレクトラ・コンプレクス」について、多くの学生がコメントを書いてくれた。目立ったのは、本来の(古代ギリシアの)伝承を念頭に置いた場合の、「エレクトラ・コンプレクス」なる名称の当否にかんするものだ。結論をいえば、「納得のいく命名ではない」という意見が多かったわけだが、これを受けて僕もいまいちどユングの議論について考えてみた。

 まずはユングがどのようにして「エレクトラ・コンプレクス」の説明をしているのかみてみたい。

こうしたごく幼い子供にとっては、母親はもとよりなんら言うべきほどの性的な意味は持っていないのですから、エディプス・コンプレクスという名称は、そもそも当たりません。…幼年時代の初期では、快感に占める性の割合はあるかなきかにすぎないのです。しかし嫉妬は、それにもかかわらず、すでに大きな役割を演じています。…これ[=嫉妬]にエロスの芽生えが付け加わるにはそれほど間がありません。この要素は年とともに強まっていって、やがてエディプス・コンプレクスが古典的なかたちで現れます。年齢とともにこの葛藤は…女の子の場合は父親への偏った傾倒と、それに見合った母親に対する嫉妬の態度に発展します。この場合をエレクトラ・コンプレクスと呼んでよいでしょう。エレクトラはご承知のように、愛する父親を奪った母のクリュタイムネストラの夫殺しに血の復讐を遂げたからです。

(ユング「エディプス・コンプレクス」日本語訳103~105頁、下線筆者)

ユングは、フロイトによる「エディプス・コンプレクス」の命名を批判したうえで、「エレクトラは愛する父親のために母親を殺したわけだから、「エレクトラ・コンプレクス」という名称は適切だ」としている。だが、はたして、ユングのいうような「嫉妬」や「エロス」の心理をエレクトラに見出すことができるのかどうか。ここで、もともとの伝承を思い起こしてみる。エレクトラが母親のクリュタイムネストラを殺す計画を立てたのは、あくまで理不尽な殺され方をした父親アガメムノンの「復讐」のため(上の引用の末尾をみればわかるが、ユング自身も「(血の)復讐」といっている)であって、べつに「嫉妬」や「エロス」が彼女を突き動かしたわけではない。エディプス的な意味での心理的葛藤は、エレクトラとはおよそ無関係だ。もっというと、たとえばアイスキュロス『コエポロイ』では、じっさいに母殺しを行う(クリュタイムネストラに手をかける)のは、息子のオレステスであってエレクトラではない。こういったことをふまえると、「エレクトラ・コンプレクス」という名称では、ユングが想定していたであろう状況―女児が、父親を想うあまり、競争相手の母親を亡き者にする、というもの―がうまく説明できないのではと思えてくる。少し意地悪な言い方になるが、ユングがわざわざギリシア神話を素材とした「エレクトラ・コンプレクス」をつくり出したのは、ただフロイトの「エディプス・コンプレクス」の向こうを張りたいだけだったのではないか(この点、「エディプス・コンプレクス」は、神話中のエディプスによる2つの禁忌破りは「無意識」的であったわけなので、すこぶる適切な名称だと思う)。

 今回の文章、ユング心理学を理解していない人間の野暮な注釈と言われてしまえばそれまでだが、西洋古典学徒として少し違和感を覚えたので、したためてみた次第である。

【参考文献】

C・G・ユング(著)、松代洋一(訳)『創造する無意識―ユングの文芸論』平凡社ライブラリー、1996年。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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