ギリシャ・ローマの文献の研究にかんするゲーテの見解

エッカーマン『ゲーテとの対話』は、僕の大のお気に入りの本のひとつだ。気が向いたときに拾い読みをしている(日にちを基準に内容が細切れにされているので、拾い読みに向いているのだ)が、今日も何気なく手にとってみて、面白い記述に出会ったので、そのことについて簡単にメモしておきたい。(なお、本記事の日本語引用は、すべて岩波文庫版の下巻から借用したもので、これについて詳しくは下の出版社のリンクを参照されたい)。

 読んだのは「1827年4月1日日曜日」のセクションで、ここでゲーテは、ギリシャ・ローマの文献―平たくいえば「古典」―を研究する意義について、エッカーマンにたいし、熱弁をふるっている。たとえば以下のごとくである。

「生れが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要はない。何世紀も不変の価値、不変の名声を保ってきた作品を持つ過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ。こんなことをいわなくても、現にすぐれた天分に恵まれた人なら、心の中でその必要を感じるだろうし、逆に偉大な先人と交わりたいという欲求こそ、高度な素質のある証拠なのだ。…何よりもまず、古代ギリシャ人に、一にも二にもギリシャ人に学ぶべきだよ。」(129頁)

ゲーテは「古典の力」を強調しているが、エッカーマンは彼の考えをそのまま受け入れることはしない。ある程度譲歩をしたうえで、次のように主張するのだ。

「けれども、一般的に言って、[古代の文献を研究することは]個性にはほとんど影響を与えていないと思われます。もし、そうだったら、それこそ言語学者や神学者はみんなきわめてすぐれた人物になっているはずですが。しかし、けっしてそんなことはないのです。古代ギリシャ語やラテン語の文献の専門家にも有能な人がいるかと思うと、あわれな人もおります。」(129頁)

たしかにエッカーマンのいうとおりで、ギリシャ・ローマの研究を行う者すべてが高徳の人士になれるはずはない(研究内容によっては、むしろその逆になることもありうるだろう)。これにたいし、ゲーテは次のように答える。

「…古代の文献の研究が、どんなばあいにも、個性の形成に役立たないというわけではぜったいにないよ。駄目な奴は、もちろんいつまでたっても駄目だ。小才しかない人間は、古代の偉大な精神に毎日接したところで、少しも大きくはならないだろう。だが、将来偉大な人物となり、崇高な精神の持主となるべき力を、その魂の中に宿しているような気高い人物ならば、古代ギリシャやローマの崇高な天才たちと親しく交わり、付き合ううちに、この上なく見事な進歩をとげ、日々に目に見えて成長し、ついにはそれと比肩するほどの偉大さに到達するだろう。」(129~130頁)

「駄目な奴は…いつまでたっても駄目」とのことだが、それでもゲーテは「古代の文献の研究」が「個性の形成」に役立つはずと信じて疑わない。

 僕は、まさに「古代の文献の研究」に従事しているので、ゲーテの見解には勇気づけられる。ただ、彼の考えは、そのままでは、21世紀の日本では通用しないだろう。ゲーテが生きたのは、いわゆる「古代ギリシャ憧憬」(Philhellenismus)の時代であることを忘れてはならず、当時、「(とりわけギリシャの)古典」の価値は絶対視されていたので、彼も自信満々に上記のことを述べることができたのだ。価値の相対化が極限にまですすんだ現在の日本では、ギリシャ・ローマの文献といえども、「多くのうちのひとつ」にすぎない。日本の大学やカルチャーセンターでギリシャ・ローマについて講じている僕も、ゲーテのように楽観的ではいられない。「古典」をまなぶ意義とはいったい何なのか、これは常に問い続けていかなければならないと思う。

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

このサイトでは、学者の卵である私、勝又泰洋が、日々の勉強・研究について(もっぱら自身の備忘のために)簡単な文章をものしています。サイト名の「つねに多くのことを学びつつ年をとる」は、古代ギリシアの政治家ソローンによる詩の一節です。これを座右の銘として、毎日マイペースに学問に励んでいます。

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